志純太平記
第六話 『正中の変』
全ての始まりは天皇家にあった二つの勢力の争いである。
第88代天皇である後嵯峨天皇には二人の息子がおり、一人は後深草天皇、もう一人は亀山天皇といわれた。二人は兄弟で、ともに天皇になった。だが次の天皇を決めるとき、父親の後嵯峨天皇は後深草天皇の弟である亀山天皇の皇子を指名した。反発した後深草天皇と亀山天皇との間で争いが起こり、それが大覚寺統(亀山天皇系)と持明院統(後深草天皇系)の二つの勢力に朝廷を分裂させた。
その後は幕府の意向もあり、二つの勢力はそれぞれの系列から天皇を交代で出すことで合意した。
そして後嵯峨天皇の崩御から役50年。大覚寺統から一人の天皇が出た。それが第96代天皇の後醍醐天皇である。この天皇は元々父親の意向で兄の後二条天皇の遺児である邦良親王が成人するまでの中継ぎとして即位した。だから後醍醐天皇の子供には皇位継承の権利がない。更に幕府や持明院統、果ては大覚寺統の公家達まで次第に天皇の退位を迫ってきていた。
焦った天皇は一部の側近にある命令を下した。
それこそが……『倒幕』。
正中元年(1324年)
9月のある夜。
幕府の本拠地鎌倉へ帰還する途中、元六波羅探題南方司令官の北条維貞は郎党数百人を引き連れながら暗い道を馬に揺られながら歩いていた。
(もうすぐ鎌倉か……)
故郷に帰れる喜びとは裏腹に、彼の心には一抹の不安があった。最近の朝廷の不穏な動き、悪党と呼ばれる野武士集団の台頭など、幕府は現在多くの不安要素を抱えている。だが、その事態の重要さに気付いている者はごく一部だ。
維貞は何事もないことを祈りながら帰路を急ぐ。しかし、彼の想いはあえなく打ち砕かれた。
馬蹄の響きが後方から響く。維貞一行は道を少し譲ると共に、音のする方向に顔を向けた。
「早馬!早馬でござる!道を開けられよ!」
後ろの兵から順序良く聞えてくる言葉。維貞は嫌な予感を覚え、兵達に怒鳴った。
「誰の早馬か!そして何の御用か、問いただせ!」
再び言葉遊びのように兵達が後ろに聞き返す。やがて早馬の武士はそのまま維貞の前まで来ると馬の脚を上げながら急停止し、叫んだ。
「京にて大事あり!ごめん!」
そう叫ぶや武士は再び馬を走らせ、瞬きする間には既に森の彼方へと消えていた。
(京にて大事だと……まさか朝廷が、天皇が動いたのか!?)
維貞は朝廷の事情にも通じている。現在の天皇である後醍醐天皇が幕府に不満を募らせているのも知っていた。
「全員急ぐぞ!」
維貞と郎党達は早馬の後を追い、鎌倉への道を走った。
数時間前
京における多治見国長の屋敷では、宴会が催されていた。どれも元は地方の野武士達なので、態度も大きければ声もでかい。誰もが自分達の果たすであろう活躍に酔いしれ、事がなった後の恩賞に期待していた。
「なんと言っても幕府を倒すのだ。それ相応のものを貰わねばな」
「せめて一国の守護にはなりたいものよ」
「いやいや、わしは関白になってみたい」
「こやつ、ぬけぬけと!はっはっはっは!」
夜が更けて、宴は自然解散となった。
国長の同族である土岐頼員は、妻に支えられながら寝床に入った。
「ああ今宵も楽しかった。つい飲みすぎてしまった」
「飲みすぎでございますよ。酒の臭いが外にまで」
「ふふ、そう言うな。酒に溺れる日はもうすぐ終わる。これからはもっと楽しい日々が来るのだ」
「まあ、それはどういうことですか?」
「幕府を倒して、俺が一国の守護となる。そうなれば、お前や一族も全員楽しく暮らせるのだ」
その言葉に、妻の顔から血の気が引く。
「殿、それはどういう、意味ですの?」
「言葉の通りだ。いずれ天皇から直々に勅令が下る。それに合わせて我らは起ち、幕府を滅ぼすのだ。ふっはっはっはっは!」
普通なら酔った勢いでの冗談かと思うかもしれない。だがこの妻は、それが冗談や戯言には聞えなかった。妻は夫を残したまま、急いで屋敷を出た。
多治見国長と一族郎党が自分の屋敷で寝入っていたとき、外から喧騒が聞えた。大方酔いが冷めぬ連中が騒いでいるのだろうと思ったが、どうも様子がおかしい。そこに、一人の郎党が駆け込んできた。
「大変でございます!幕府の、六波羅探題の軍勢がこの屋敷を!」
「なにぃ!!」
六波羅探題北方司令官の北条範貞は土岐頼員の妻の密告に激怒し、すぐさま軍を頼員の館に派遣。彼や郎党を捕らえて事の真相を知り、更には倒幕計画の規模の大きさに仰天した。
「朝廷が美濃の多治見氏と土岐氏に倒幕を呼びかけ、更には方々に兵を募っていたとは……ええぃ、逆賊を捕らえよ!逆らうものには容赦するな!」
国長は自慢の弓と太刀で武装すると、屋敷の中から大音声で叫んだ。
「もはや逃れられぬ!こうなれば一人でも多くの敵を道連れにせよ!多治見国長の名を、あの世まで残すのだ!」
夜はますます深まる。六波羅軍は計画に加担した武士達の屋敷や公家の館にまで兵を送り、朝廷には事の次第を問いただす詰問の使者が立てられた。
京に到着したばかりの三宅宗助、児島高徳らは突然の異変に驚いた。特に宗助はオロオロするばかりである。
「何だ?戦でも起こったのか?あ、義兄上……どうしましょう?」
「情けない声を出すな。お前は我らの総大将、気をしっかり持て」
そこに、六波羅探題軍の部隊長と名乗る男がやってきた。
「お前達は西国からやってきた募兵団だな。代表者は誰だ?」
皆が顔を見合わせる。ここにいるのは三宅宗助や児島高徳のような備前国の武士達だけではなく、伯耆国や美作国からも少数ずつ集められた者達だ。全員の統率者などいない。
仕方なく、もっとも高齢な指導者が指名された。
「いいか、現在京では倒幕を計画した逆賊を討ち取っている最中だ。お前達はこのような事態に備えて集められた予備軍。我らの足となり、鼻となり、京から脱出しようとする者を全て捕らえよ。それから報告があった手配人も残らず捕らえよ。良いな!」
まくし立てるや部隊長はいってしまった。いきなりの緊急事態に集団は混乱したが、とりあえず指名された指導者はそれぞれ京の出入り口に当る場所に部隊を分けることにした。
三宅宗助の部隊も指示された場所に向かおうと立ち上がったとき、児島高徳は一人、そっと集団から抜けた。
所々でかがり火が炊かれた京の町を走る児島高徳。彼の心にはある一種の不安があった。
(倒幕……確かにあの男はそう言った。計画がばれたのか、ならばあいつは……俊基は無事なのか?)
他のことなどどうでもいい。ただ高徳は俊基の、気高い心を持った若い公家の無事だけを祈り、走った。
途中で何度も六波羅の兵に止められた。ただでさえ興奮している兵達に事情を話している暇はない。高徳は自慢の俊足で彼らをやり過ごし、近くの一般人に声をかけながら、俊基の居場所を探した。
俊基が皇居に非難している可能性もあったが、高徳は探し続けた。何か勘のようなものが働いたのかもしれない。
高徳が町の角を曲がった直後、一人の子供とぶつかった。少年のようだが、着ているものは立派だ。
「…………」
少年は何も言わず、高徳を避けるように道を走った。手には何か小さな包みを持っている。高徳は一度背を向けて数歩歩いてから、急に後ろを振り向いた。こちらを見ていた少年は仰天した顔で一気に走り去る。
少年が逃げ込んだのはある古びた一軒の家。かなり全速力で走っていたが、高徳の眼と足からは逃れられない。高徳は用心深く中の様子をうかがった。
ガタガタと騒がしい音がして、男が奥から出てきた。それは紛れもない、高徳が探していた男だ。
「もはや逃げも隠れもせぬ。私を捕らえたいのなら捕らえ、殺したいなら殺すがいい」
その懐かしい声に押され、高徳がゆっくりと玄関に姿を現す。
「なっ!そなたは、児島高徳!!」
「久しぶりだな、俊基殿」
俊基は腰が抜けたようにその場に座り込むと、安堵の表情を見せた。
「ふふ、そなたの顔を見てこんなに嬉しい日が来るとは。御仏に感謝せねばならぬな」
俊基によると、多くの公家が逃げ遅れ、大多数が捕縛されたらしい。
彼も皇居に逃げようとしたが、天皇に危害が加えられるのを恐れ、結局古びた商人の家に逃げ込んだようだ。
「名門の日野家のあなたが、なぜ護衛も付けずに」
「よいか高徳よ、人間とは所詮自分が一番大事なのだ。多くの兵隊は私から離れ、挙句には私の居場所を知らせようと去っていった。残ったのはこの童子だけだ」
先程の童子は俊基の側にちょこんと座っている。
「…………」
「笑うか高徳?倒幕という途方もないことを企てた愚か者だと、私を笑うか?」
「俺には何が笑い事なのかわからない。だから笑えない」
「相変わらずだな……。しかし、なぜそなたが京に?」
高徳は俊基が備前国を去った後のことを話し、自分達が幕府の予備部隊として召集されたことを説明した。高徳自身がそれに随行したのはいつもの気紛れだと説明しておいた。
「さすがは幕府だな。我らの動きを察知していたか。遅かれ早かれ我々は負けたようだ」
俊基は心身ともに疲れた様子で深い溜息を吐いた。高徳はそんな俊基を見たくはない。気高い心を持った日野俊基に、児島高徳という男は惹かれているのだ。だから高徳は、あえてこんな質問をした。
「後悔しているのか、倒幕を」
「後悔?」
俊基の声に熱気が戻る。彼は闘志をたたえた眼で高徳を睨んだ。
「私は決して後悔などしていない。私は悔しいのだ。事破れた帝のお心を思うと……他の同志達の無念を思うと……」
肩を震わせ、拳を握り締める。そんな姿を見ると、高徳は内から熱い何かが湧き出てくるのを感じた。それはあの時、美作国で北条の私兵に襲撃されたときのものに似ていた。
この男の為に力を尽くす。それが自分にとってどれだけ誇らしく、心地よいことか、高徳は知っている。
「心配するな。俺が……俺がお前の願いを叶えてやる」
高徳は自分で驚く言葉を口にしていた。だが言ってしまってからは、約束の成否に関わらず、熱いものが体を包んだ。
「そうか、そなたも帝の為に力を貸してくれるか。その言葉だけで、私も勇気が出たよ」
児島高徳は備前国の中堅豪族の養子に過ぎない。だから正直言って高徳にそれほど期待はしていない。だが俊基は、高徳のその言葉が本当に嬉しかった。
「とりあえず、京を脱出しよう。まずはそれからだ」
「だが、帝を置いて行きたくはない。それに、もう幕府の兵が完全に封鎖しているのではないか」
「大丈夫だ。その気になれば、どこかに必ず抜け穴がある。それに、京の出入り口の一箇所は俺の親族が守っている。何とかなるさ」
「……高徳」
その時、玄関に一人の黒い影が浮んだ。
「残念でござるが、俊基殿には六波羅に出頭していただきます」
俊基も高徳も、ぎくりとした。特に驚いたのは高徳だ。ここまで気配を消して近づく人間がいるとは。
「何者だ」
俊基が強い口調で問う。相手は顔を覆面で隠しているが、武器は持っていない。
「伊賀兼光……六波羅探題の引付頭人兼評定衆でござる。以後お見知りおきを」
「まさか、資朝殿が仰っていた六波羅の内通者とはそなたか」
「いかにも、この兼光は朝廷の味方でござる。ですが事は既に終わりました。資朝様は捕縛され、多治見国長、土岐頼兼らは六波羅探題によって討ち取られましてございます」
「なんと……資朝殿は捕縛されたのか……」
「既に朝廷からは万里古路宣房様が鎌倉へ弁明の為に出立されました。今回の件は全て日野資朝を初めとした一部の公家衆が起こしたことであると説明するために」
「そうか、万里小路様が。ならば仕方あるまい」
「待て、伊賀兼光と言ったな。お前がその兼光である証拠を見せろ」
高徳は腰に帯びた剣に集中しながら鋭く言い放つ。何かあれば自分の剣で相手を切る気概だ。
「拙者……資朝様に手紙を預かっておるでござる。これを俊基様に」
差し出された手紙を開ける俊基。彼は何も反応を示さず、手紙を全て読み終えるとそれを蝋燭の火で燃やした。
「高徳、兼光殿、世話になった。私は六波羅に出頭する」
その言葉で、決着はついた。高徳も静かに頭を垂れる。
「……それがあなたと……あなたが仕える人達の意思か?」
俊基は玄関先で振り向いた。その顔は、高徳が見た中で一番優しかった。
「また会おう」
そういうと、彼は静かに出て行った。
児島高徳が玄関先から見送る背後で、伊賀兼光が肩にそっと触れる。
「悲しむことはござらぬ。俊基様は大義の為に、自らの信念を守る為に敵に降るのだ。これは決して、敗北ではない」
胸を張って歩く俊基の背中を高徳はただ呆然と眺め、両の拳は硬く握られていた。
『正中の変』と呼ばれた幕府転覆計画未遂事件。
日野資朝、日野俊基ら数名の公家が捕縛され、資朝は佐渡島へ流罪、俊基は何とか処罰を免れた。
計画に加担した多治見国長らの武士は討ち取られ、朝廷は重鎮の万里小路宣房を鎌倉へ送って弁明。その結果、後醍醐天皇自身に幕府は何も言わず、不問とした。
夜が明けた京の町。
小高い丘の上で、児島高徳は別れ際に伊賀兼光から言われた言葉を思い出す。
『此度は失敗したが、帝は決して諦めない。そして帝が諦めない限り、幕府はいずれ滅ぶ。だが、その為にはもっと多くの犠牲が必要だ。君も……帝の為に、天下の為に、犠牲となってくれるか?』
高徳は起き上がると、側に同じ様に座っていた童子。俊基が連れていた少年に声をかける。
「お前の主はきっと帰ってくる。それまで、俺と来るか?」
少年は黙ってうなずき、高徳は少年と共に多くの血と悲しみが流れた都を後にした。
第六話 完
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