志純太平記




 第十話 『元弘の変・序』

 正中の変と呼ばれた天皇中心の過激派公家による倒幕未遂事件から7年。人々は一時の平穏を謳歌していたが、世に名高き後醍醐天皇の心は折れてはいなかった。帝は日々自分に賛同する者達と身分や貧富の差異に関係なく接し、その志を、理想を論じた。ただし大多数の公家は帝の早急な姿勢を恐れ、日和見と保身に走った。幕府はそれら朝廷の動きを察知していたが、執権の北条氏は朝廷を侮り、また朝廷内部の派閥争いによって半ば無視する形をとっていた。





 そんな折、「後の三房」と称される天皇側近の三人が会合した。多くの場合、このような席を設けるのは三人のリーダー格である北畠親房であり、今回もそうだった。彼は若くして出家して政治の第一線を退いているが、いまだに天皇とその周辺に絶大な力を持つ老人である。

 「今日はお忙しい中、よく起こし下された。礼を言います」

 背を曲げてお礼をする親房だが、他の二人は緊張の色を隠せない。この老人には他人を圧する何か強い力があるのだ。声は枯れてはいるが野太く、体は豊かに丸いのに頬は僅かに痩せ、表情はいつも暗い。その姿は例え友人とはいえ不気味に映る。

 「親房殿も元気そうで何より。して、本日は何の御用ですかな?」

 三房の一人、万里小路宣房が口を開く。彼は三人の中で最も背が高く、立派な体格をしている。そんな彼が姿勢をピンと伸ばして話せば、実に絵になる。

 「帝のお心に、再び戦いの意志を感じる。近いうちに、また事を起こすやもしれぬ」

 「なんですと!?それは困る、帝は何をお考えか!」

 狼狽したのは吉田定房。天皇の信任厚い公家ではあるが、彼は穏健派の一人として、あくまで武力に頼って幕府を倒そうとする帝を諌めてきた。

 「世を正すに武力を用いるは最も簡潔で早道ではある。だが、それによって成り立った世が崩壊するのもまた早い。今の幕府が良い例だ。帝はそれをお分かりにならないのか」

 「定房殿、実はわしも、帝のお選びになった道が最善だと、最近は思い始めている」

 「それはまた、どういうことですか、親房殿」

 三房は常に帝を補佐してきた。だが、彼らの見識の枠を超える存在が後醍醐天皇である。天皇の強烈な個性に、親房は影響されつつあった。

 「古来より、天運を掴むものが世を作る。昨今の幕府が抱えるあらゆる問題、武士層の支持低迷、今こそまさに天運を掴むときではないのか。わしは……」

 「下手に歳を取ったか親房殿。若い者の時期尚早な言葉に感化されおって。大納言ともあろうものが」

 はき捨てる定房に対し、親房はあくまで冷静である。

 「もはや、絡み合って修復不可能となった現在のこの天下を、もう一度叩いてみるべきなのではないか?定房殿、宣房殿」

 「しかし、結果はどうなるかわからんぞ、親房殿」

 「くっくっく、結果を思案するなど……小さきことよ。もうわしは、今の世に疲れた。出来うるなら、歴史に名を残すことがしたい。そう思わぬか、お二人とも」

 「…………」

 老いてなお、いや、老いてこそこの男は舞台を求める。二人の背筋に冷たいものが走った。親房の目は不気味に輝く、まるで帝の目のようだった。





 日野俊基、花山院師賢、中院定平は各地に在住する同志達の動きに目を配り、それぞれ独自の使者を方々に飛ばしていた。

 「全国の同志が呼応して幕府に当れば、いかに幕府軍でも対処は仕切れまい。比叡山を始め門徒宗からの支援も得られている。駒は揃いつつあるな」

 鼻息の荒い師賢とは違い、俊基はまだ顔が暗い。彼は同族の資朝らが捕縛された7年前の事件の末路をまだ引きずっているようだ。

 「俊基殿、大丈夫か?」

 「ああ、もちろんです。今度こそ、幕府を倒さねば」

 「我々は数百年、武家に天下を好き勝手にさせてきた。もうそろそろ、我々が土俵に上がっても良い頃だ。幕府打倒を夢見て散った同志達のためにも、我々はここで止まるわけにはいかんな」

 その言葉に、俊基の顔が引き締まる。

 「もちろんです。この俊基、そのためならいつでも命を投げ出す覚悟」

 一瞬、俊基の脳裏にある男の顔が浮んだ。

 児島高徳……あの風変わりな若者は元気にしているだろうか。





 「帝は動くであろうか、文観殿」

 山々に囲まれた河内国の赤坂村。ここに一人の中年武士がいた。名を楠木正成。その側には文観と呼ばれた一人の僧。

 「帝のお心はいわば流れる滝。動きを止めることは誰にも出来ませぬ。この愚僧の目には見えまする。あのお方が不屈の軍勢を率いて幕府に鉄槌を下す姿が」

 そう言われると、正成の目にも見えるようだ。長きに渡ってこの国を支配した武家が倒れる光景が。

 「事が起こった場合、頼みますぞ正成殿」

 「この楠木正成、命尽きても帝をお守りいたす所存。文観殿も、比叡山の護良親王様との連絡役、頼みますぞ」

 「その事でしたら万事抜かりなし。信用の置ける者に任せてある」

 「…………全ては正しき世の為に」





 比叡山延暦寺の住職は天台座主と呼ばれ、現在は後醍醐天皇の皇子・護良親王が席を入れていた。

 そこに、修験者が訪れた。座主でありながら、親王は堅苦しい礼儀作法を好まず、「全ては簡潔にわかりやすく」を身上としている。今回も何の警戒も抱かず、訪問者を通した。

 「お初にお目にかかります。生まれは京、育ちは備前、和田範長の子、児島高徳と申します」

 「余が天台座主護良である。遠路よく来られた、高徳殿」

 痩せ型でありながら、無駄のない肉がのり、7年という歳月は高徳を更に成長させていた。

 武辺者を好む親王は、高徳の鍛えられた心身を感じ、好感を覚えた。また高徳も、身分的にかなり高位な親王の決して上から見下さない真摯な態度に良い印象を持った。

 「文によれば、そちは文観の使いだそうだな」

 「はい。文観殿から、親王様への顔見せと、今後の方針を伝えるようにと」

 「ではこれからは、そちが余と下界の橋渡しか」

 「そういうことですな」

 「頼りにしているぞ」

 「はい」





 事態が急変したのは8月のことであった。京を監視警護する六波羅探題に、天皇の側近である吉田定房の使者が来たのである。

 使者からの言葉は、六波羅に衝撃を与え、同時にある種の喜びを運んだ。

 「後醍醐天皇が再び倒幕を目論んでいるとな!?」

 「現に各地から同志を募り、一斉蜂起の時期は整えつつあります」

 この報告に、六波羅探題の指揮官・北条仲時(北方指揮官)と北条時益(南方指揮官)はすぐに手を打った。

 「軍勢をかき集めよ。今こそあの無謀なる帝を退位させる時ぞ!」

 7年前の正中の変では天皇側の必死の嘆願と、裏での金銭工作によって帝自身に累が及ぶことはなかった。だが2度目となる今回はそうもいかない。今度こそ後醍醐天皇は退位、もしくは死ぬ。二人は矢も立てもいられず馬に飛び乗った。





 天皇の御所は現在の京都府京都市上京区。そこに六波羅探題の軍勢数万が取り囲んだ。突然の襲撃ではあったが、その時帝の側にいた俊基らは機敏に動いた。

 「もはや言い逃れできる空気ではない。奴らは討ち入り次第、ドサクサに紛れて帝を殺す気であろう。ここは速やかに帝を輿に乗せ、比叡山に」

 「いや、比叡山では有事の際に対処がしづらい。笠置山に向かわせよう」

 花山院の言葉に俊基も頷く。笠置山なら河内国の楠木正成、現在大和国の吉野にいる護良親王とも距離的に近い。

 花山院師賢は天皇に偽装して輿に乗り、それに中院定平が従って前に出た。

 「帝は出家するために比叡山に向かい、そこで改めて鎌倉の将軍様に弁明いたす。道を空けられよ!」

 一歩先んじて朝廷側が白旗を揚げたので、六波羅の軍勢を率いる仲時も時益も出鼻をくじかれた。

 「ううむ、わかり申した」

 花山院と中院が時間を稼いでいる間に、俊基と親友の北畠具行は天皇に女装させ、御所を脱出した。





 「倒幕計画発覚す!」、「天皇は比叡山へ!」の情報は全国に駆け巡った。

 河内国赤坂城(下赤坂城)

 「天運を切り開くは武運!我らの武で、帝による正しき世を勝ち取るのだ!」

 楠木正成、河内国赤坂城で挙兵。





 大和国吉野

 「高徳よ。どうやら父君の倒幕計画が漏れたらしい」

 「何と!」

 「父君も詰めが甘いことよ……赤松、村上!」

 「「はっ!」」

 「余は大塔宮護良親王として、そして一人の子として父君に従う!挙兵の狼煙を上げよ!」





 武蔵国鎌倉

 執権の北条守時は頭を抱えた。現在幕府は多方面で問題を起こしているのに、ここに来て再びの倒幕運動である。

 「ええい!朝廷の公家どもめ!一度ならず二度までも幕府に逆らうか!」

 そこに先々代の執権、北条高時が扇を仰ぎながら現れた。

 「まあ落ち着かれよ、守時殿。こうなってしまっては仕方がない。六波羅の軍勢を差し向ければよい話だ」

 「確かにそうだが……」

 「災害は過ぎ去るもの。微々たる風は頬を打っても、体は動かせませぬ。まあ、じっくり見ようではありませぬか、ことの顛末を」





 山城国笠置山(京都府笠置町)

 比叡山に行くと見せかけてこの山に到着した後醍醐天皇は、従った者達に挙兵を宣言した。もはや後がない一か八かの戦いである。

 これに対し、幕府は7万人と言われる軍勢を差し向けた。同じ様に吉野、赤坂城へも数万規模の軍勢を派遣。戦火は京を中心に拡大した。





 1331年(元弘元年)8月

 後醍醐天皇、護良親王、楠木正成の三者を軸に「元弘の変」が勃発。これ以降、天下には多くの英雄豪傑が現れ、長い戦いが続いていくことになる。



 第十話 完


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