戦国島津伝
第三十五章 『六吉の長篠合戦』
家久達が薩摩に帰還して一ヵ月後。
1575年の今日、戦国史上に名高い合戦が始まろうとしていた。
後に『長篠の合戦』と呼ばれる戦争。
今回はその長篠の戦いを、紹介しようと思う。
当時、徳川領の重要拠点・高天神城を陥落させた武田勝頼率いる武田軍は、信濃と三河の境にある戦略的に重要な長篠城を取り囲んだ。
信長は家康の要請を受け、大規模な援軍を送る。
徳川軍八千人、信長軍三万人の総勢三万八千人の織田・徳川連合軍は長篠城から西方2kmの地点に布陣、連子川を挟んで勝頼軍一万五千と対峙した。
数的には織田・徳川連合軍が勝ってはいるが、武田家は当時戦国最強の呼び声高い武門の家。まともに戦っては大きな犠牲が出るのは言うに及ばず。そこで総司令官の織田信長は前田利家・佐々成政に足軽鉄砲隊の指揮を任せた。
連合軍の鉄砲数は全部で三千丁。一度の合戦に三千丁の鉄砲が用意されるのは前代未聞である。前面に馬防柵を作り、鉄砲隊を三段に配置、堀を備えた万全の態勢で待ち構える織田・徳川連合軍。
緊迫した空気が流れる中、鉄砲隊に一人の男がいた。
「なぜ、なぜこんな事に、う〜」
カタカタと鉄砲を持つ両手を震わす男・六吉。
彼は京で北郷時久・東郷重位の前で戦が嫌だと泣いていた農民である。
彼は今、前田利家の指揮下の兵として前線に立っていた。
「だいたいこんな筒で、武田に勝てるのか?」
その気持ちは他の兵達も同じだった。
槍や刀と違って扱いにくく、手間が掛かる鉄砲はいかにも頼りない。
それでも、織田信長はこの戦いに絶対の自信を持っていた。
その自身が家臣に伝わり、兵達にも伝わって来る。
「な〜に、心配するな。俺達は素早く撃って後ろに下がればいいんだ」
隣の仲間が言った。
その言葉に、六吉は気を取り直し、改めて前方の林に神経を尖らせた。
やがて・・・
『赤備え』と呼ばれる赤一色で統一された騎馬隊を先頭に、次々と武田軍が姿を現した。
兵一人一人が歴戦の勇者、その猛者達を束ねる各隊の武将はまさに戦国随一の名将達である。軍全体から発せられる闘志は、確実に武田が勝っていた。
「ひっ、あ、あれが・・・武田」
六吉をはじめ、兵達が武田軍の勇姿に動揺しだした時。
「恐れるな!」
声の主は六吉達の近くにいた指揮官・前田利家である。
佐々成政と同様、前面の鉄砲隊の総指揮を任せられている男だ。
「いかに武田が勇猛でも、馬防柵と我ら鉄砲隊の布陣の前には無力!よいか、三段撃ちを忘れるな!」
三段撃ちは、信長が考えた今回の戦の最大の見せ場。兵を三人一組にして縦に並ばせ、鉄砲を前から順番に撃っていくという作戦である。
うまくすれば、鉄砲を連続射撃出来る。
「常に我が声に従え。前の敵は気にするな、とにかく射撃を止めなければ、この戦は勝ちだ!」
その声に勇気付けられ、至る所から「おお!」という歓声が聞える。
六吉も指揮官の言葉に少しばかり安心した。
武田本陣
武田軍総大将・武田勝頼は、必勝を予測していた。
いかに鉄砲と馬防柵、堀に連合軍が守られていても、武田軍の機動力と攻撃力は他の追随を許さないほど強力なはず。負けるはずがない。
「此度の戦は敵も本腰を入れておるようだが、我らは一日で敵軍を撃滅し、長篠城を奪う。良いな!」
「あいや待たれよ!」
席を立ったのは内藤昌豊(ないとうまさとよ)。武田軍の重鎮にして作戦参謀を務める老臣である。
「敵は三重に馬防柵を仕掛け、山を切り崩して要塞化しております。ここは敵が陣から打って出るのを待つのが良策と心得ます」
内藤昌豊の言葉に、『赤備え』隊の指揮官・山県昌景(やまがたまさかげ)、真田信綱(さなだのぶつな)らの老臣達がうなずいた。
「ばか者が!それが世に知れ渡る武田軍の将の言葉か!あの見せ掛けだけの敵陣に怯えよって。貴様らがそんなふぬけだから長篠城もなかなか落とせんのだ!」
軍配(ぐんばい)を振り回しながら怒る勝頼に、内藤達は悲しく頭を下げるしかなかった。
武田勝頼は信玄の四男。兄達の相次ぐ死で武田家を継ぐこととなったが、彼は信玄の孫・武田信勝の後見人(こうけんにん)でしかない。
よって信勝が成人すれば、彼は代理の当主としての立場を失うのである。
だからこそ、信玄亡き後に織田家や徳川家に奪われた所領を回復し、家臣達に自分こそ当主に相応しいという事を証明しなければならなかった。
軍議が終わり、各武将が持ち場に向かう途中、武田家重臣の馬場信房(ばばのぶふさ)は、内藤昌豊に呼び止められた。
「馬場殿」
「内藤殿か・・・此度の戦、武田は負けるやもしれん」
「ああ、だからこそ、馬場殿にお願いしたい」
「わしに?何か」
「もしもの時は、我らに成り代わり、勝頼様を頼みます」
「・・・・」
内藤は死ぬ気だと、馬場は悟った。
「おい貴様達!何をしておる、早く出陣の準備をせよ」
本陣から勝頼の厳しい叱咤(しった)を受けつつも、内藤昌豊はどこか子供を見守る親のように、穏やかな視線を勝頼に向けた。
そして遂に、天正三年(1575年)五月二十一日。
織田・徳川連合軍三万八千と、武田勝頼の一万五千の軍団が三河国南設楽(みなみしだら)郡、設楽原(しだらがはら)の地で激突した。
戦いは終始、連合軍が優勢だった。
迫り来る武田軍を、馬防柵と堀で防ぎ、三段撃ちで確実に仕留める。六吉や仲間達も、死に物狂いで鉄砲を構え撃った。
敵は面白いように倒れていく。
だが、時間と敵の猛攻が激しくなると、徐々に防衛線は突破され始めた。
武田軍の武将の一人・土屋昌次(つちやまさつぐ)は三重に設置された馬防柵を二重段目まで破壊。そこで息絶えたが、土屋が破壊した箇所に武田軍が一斉に押し寄せた。名将・真田幸隆の息子・真田信綱を始め、『赤備え』の山県昌景、内藤昌豊といった勇士が次々と部隊を率いて乱入、一時中央の三段撃ちは停止させられる有様だった。
この事態に信長は予備兵力の騎馬隊、歩兵隊を投入。崩された中央の鉄砲隊を下がらせ、再編成させる時間を作ろうとした。乱入した武田軍とぶつかった予備兵力の将兵は、敵の猛攻をかろうじて受け止め、多くの犠牲を出しながらも役目を果たし、再編成して攻撃態勢を整えた中央の鉄砲隊は一斉射撃を開始。
その光景を見ていた六吉は息をのんだ。
まるで気が狂ったように信長の本陣に向けて突進する武田騎馬隊と歩兵達。
特に先頭に立って槍を振るう男・内藤昌豊の戦いぶりは尋常ではなかった。兜は取れ、髪を振り乱し、眼を血走らせ、低い唸り声を上げて「信長!」と何度も叫んでいる。
「眼をそらすな、早く弾を込めよ!」
身近にいた武将に怒鳴られ、慌てて弾込めに専念する。
「うう・・・」
だが、手が震えて上手く弾込めが出来ない。
長時間の鉄砲の射撃は射手の体力、精神力を奪っていく。
ましてや三段撃ちは休む暇も無いくらい連続して兵が順番に鉄砲を撃つ。
訓練を受けたとはいえ、六吉にはつらい重労働だった。
「はぁ、はぁ、よし!」
弾込めが終わり、前に出て鉄砲を撃とうとした瞬間。
「ひっ!」
眼の前にいきなり赤い鎧を来た騎馬武者。既に六吉達の前面にあった馬防柵は倒壊し、今にも馬ごと飛び出して来そうだ。
「う、うわぁぁぁ!」
バン!
叫びながら、六吉は鉄砲で騎馬武者を撃ち殺した。
武者は眼を見開いたまま馬から倒れ、六吉の上に覆いかぶさる。
「お、重い。苦しい・・・」
だが、仲間達は迫って来ている他の敵兵を撃つ事に一生懸命で、六吉を助ける者はいない。
「う、う」
六吉がなんとか武者を体からどかすと、物凄い叫び声が聞えた。
それは四方からの十字砲火で、全身に風穴が開いた内藤昌豊の最後の雄叫びだった。この内藤昌豊の戦死を契機(けいき)に、武田兵は次々と撃ち敗れていく。
巨大な太刀を片手で操りながら奮戦していた真田信綱も、佐々成政自慢の精鋭鉄砲隊の一人に胸を射抜かれ、戦死。
『赤備え』の騎馬隊を率いた猛将・山県昌景は片手と腹を撃たれながらも信長本陣に到達。口に采配(さいはい)を咥えたまま全身に無数の銃弾を受けて絶命した。
圧倒的な数の兵と鉄砲に恵まれた連合軍は終盤には完全に武田軍を圧倒、次々と武田家の重臣・名臣を討ち取り、遂に総大将・武田勝頼は合戦の敗北を悟り逃走。
内藤昌豊・山県昌景らと共に『武田四名臣』と呼ばれた馬場信房は自ら殿軍(でんぐん・最後尾の部隊)を務め、勝頼の戦場離脱を見届けた後、敵陣に突入。二度と帰ってはこなかった・・・。
武田勝頼は長篠城の包囲に残していた兵を回収し、故郷の甲斐から迎えに出ていた『武田四名臣』の最後の一人・高坂昌信と合流。無事に国に帰る事に成功した。
こうして、戦国最強の武田軍は壊滅。連合軍も六千名の戦死者を出したが、多くの名将や重臣を失った武田家の損失はそれ以上であり、まさに大勝利といって過言ではなかった。
この戦から、王者として戦国時代を生きた武田家は衰退を始め、遂には滅亡に追い込まれる事になる。
第三十五章 完
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