戦国島津伝
第三十八章 『開戦』
1578年四月
豊後(今の大分県)の大友宗麟が遂に動き出した。
宗麟は自ら軍を率いて居城の府内館を出陣。先発隊の大将を兵法に通じた田原親賢(たわらちかかた)とし、総勢四万三千人という大部隊を日向国に投入したのである。
この知らせに島津義久は全家臣を総動員し、交戦することを宣言した。
「皆、此度(こたび)の戦はまれにみる大戦となるであろう。だが恐れるな!我らにはお稲荷様のご加護がある。島津家の底意地を、大友の雑兵どもに見せつけようぞ!」
普段、あまり大声を出さない義久が声を張り上げて自分達を激励している。
その光景に、家臣達は眼を血走らせて「おおっ!!」という大歓声を上げた。義久は各地に将兵を配置し、大友の大軍を待った。
五月中句
大友軍は北日向で抵抗した土持氏を一蹴し、日向国に侵攻。
※一蹴(いっしゅう)・簡単に相手を負かすこと
大友軍の目標は日向国の中心、佐土原城である事は明白であった。
佐土原城を取れば、大友家の伊東家支援の目標は果たされ、南九州での支配力は盤石なものになる。
北日向から佐土原城までは、少なくとも松尾城・堅志田城・高城を抜かなければならない。
真幸院の飯野城城主・島津義弘は北郷時久・梅北国兼・伊集院久春らを引き連れ、日向北部の至川沿いの小高い山に布陣した。
義弘の目的は時間稼ぎだった。大友軍を迎え撃つ島津軍の作戦は持久戦であり、敵が佐土原城を奪って、日向国を手にする前に出来るだけ戦を長引かせたかった。戦が長引けば、数が多い敵は兵糧に困り、将兵の士気も下がる。
※兵糧(ひょうろう)・軍隊が食べる食料
問題は、弱った敵をどこで迎え撃つか・・・。こればかりは島津義久も考えあぐねていた。どんなに戦を長引かせても、敵は当主の大友宗麟自身が出陣している。宗麟が本気なら、佐土原を手に入れるまで戦を終わらせる気はないだろう。敵が佐土原を奪うのが早いか、島津が勝機を掴むのが早いか。
全てはそこにかかっていた。
島津義弘・本陣
義弘は早速、梅北・北郷・伊集院と軍議を開いていた。
「始めに言っておくが、我々は時間を稼いだ後、速やかに退く。この事を忘れるな」
一同頷くが、北郷だけは不満そうだ。
「梅北」
「はっ」
言われて中肉中背の武将、梅北国兼(うめきたくにかね)が立ち上がった。
目立たないが、昔から島津家に仕えてきた重臣である。
「長寿院盛淳殿に敵を探らせたところ、敵は四万強の軍団を三つに分けて進軍とのことです。まず、先鋒二万の大将は田原親賢。その後ろの同じく二万の中軍には、総大将の大友宗麟がいます。後詰は約三千から四千の軍団です。率いているのは宗麟の息子、大友義統」
「む〜」
思わず伊集院久春がうなる。こんな巨大な布陣は、今まで見たこと無い。
「・・・・」
北郷時久も難しい顔をして、描かれた敵の布陣図を睨む。
今、義弘達が率いている兵は総勢二千人。どうがんばっても、敵とまともにぶつかれば一撃で粉砕される。
やがて、布陣図を見ていた義弘が顔を上げた。
「おかしいとは思わんか?」
全員が顔を向ける。
「まず、この布陣図。確かに巨大に見えるが、本当はただ敵がまとまっていないだけではないのか?先鋒の二万、中軍の二万、そして後詰。どれも長く、一つ一つの軍団の連携がとれていないように見える。後詰に至っては、豊後から出てもいない」
その指摘に、諸将が地図を見入る。義弘は更に言った。
「それに、長寿院がこれほど簡単に敵の情報を探れるのもおかしい。本来なら、間者の備えはどの軍もしているものだ。これは、敵の警戒心がゆるいことを意味するのではないか?」
「確かに」
「まあ、今はなんとも言えないがな」
それだけ言うと、義弘は愛用の槍を持って陣を出た。
従者も連れず、義弘は一人馬に乗って敵陣を見渡した。
草が風に揺れる。木々がざわめく。義弘は感じていた。敵の軍団から発せられる『気』というものを。なぜ感じられるのかは、義弘自身にも分からなかった。長年の経験か、単なる『勘』か。発せられる『気』はバラバラで、まとまってはいない。
強い闘志を発している陣もあるが、弱々しい感じのものもある。怯えているようなものも。
義弘は思わず、叫んでいた。腹の底から、遠くにいる敵軍に向かって。
その雄叫びは、味方の兵が驚いて陣から飛び出してくるほどに、大地を、大気を揺らした。明らかに声は届いたようだ。敵の意識が全部こちらに向いた気配がある。無論、距離的に敵一人一人の顔は判断できず、ただの米粒ぐらいにしか見えない。それでも、敵軍は動揺し、怖がっている。義弘はそう確信した。そしてもう一つ確信した。
俺達は勝つ!・・と。
島津家久・至財部城
ここは最前線にいる島津義弘を援護するために立てられた急作りの城で、主に兵糧や武具を蓄えている。この至財部城に入った家久は、東郷重位と一緒に軍の編成を行った。家久は騎兵を、東郷は歩兵を担当。今のところ五百人ぐらいが集まっているが、とても足りなかった。
夜
「義弘様は大丈夫でしょうか、家久様」
二人で酒を飲んでいた時、東郷はふいに聞いてきた。
「兄は誰にも負けない。あの人の指揮する軍は、殿の『隼人軍』に匹敵する強さがあるのだから」
「ですが、敵は四万。こちらはその半分以下」
「東郷」
酒を注いだお椀を置いて、家久は向き直った。
「戦の勝敗は、数の多少では決まらん。将兵が一丸となって戦えば必ず勝てるものだ。と、ある武人が言っていたぞ」
「なるほど」
「くだらんことを考えてないで、もう寝ろ。貴様、さっきから飲みすぎだ」
今年で十七歳の東郷は、既に元服しているので酒は飲める。それどころか、その飲みっぷりは家久も凌駕するほどだ。
「これくらい、私はどうってことありませんが」
だが、東郷の横には空になった酒の入れ物が二つ三つ転がっていた。
「いいや、けしからん。今は戦時なのだ、もしもの時、酒のせいで動けなくなったらどうする!もう寝ろ」
確かにこれ以上この場が続けば、家久自身が動けなくなってしまうだろう。
「分かりました。では」
東郷は腰を上げて部屋を出た。
だが一人残った家久は、酒を見ながら、しばらくじっとして動かなかった。
馬越城
島津軍を代表する武将・新納忠元の居城であるこの城は、北に肥後の相良氏が所有する大口城と非常に近い距離にあり、常に緊迫した空気が流れていた。今、城には城主の新納忠元ともう一人、上井覚兼がいた。
「覚兼殿、此度の御用は?」
上井覚兼の馬越城訪問は突然のことで、忠元は少しばかり驚いていた。
「実はな、忠元殿。知っての通り、我らは大友軍と対峙している。奴らは北日向の土持氏を蹴散らしたが、どういうわけかその後の進軍は非常に遅い」
「ほう」
「調べたところ、大友軍二万の先発隊の大将は田原親賢という男だ。兵法に通じていて誠実な男らしいが、どうも積極性に欠け、しかも軍全体の統率も上手くいってはいない」
「・・・・」
「そういう指揮官は、出来るだけ兵の損失を抑えるために正面からは戦わず、からめ手で必勝を狙う場合がある」
「からめ手?」
「長寿院の情報によると、大友軍から数名の武将が相良氏との連携作戦のために、肥後に向かっているらしい」
「肥後の相良か」
「もしも相良義陽が軍を出せば、我々は大友と相良、二つの大名を相手にせねばならない。それだけは阻止しなければ」
「では、どうする?」
「忠元殿は出水城の島津義虎殿と連携して、相良氏の軍勢に備えてください。大友軍から出た武将達は、私と長寿院が何とかしましょう」
「分かった。だが、覚兼殿も大変だな。眼にクマが出来ているぞ」
「なに、忙しいのは、嫌いではないのでな」
恐らく、島津義久と上井覚兼は、大友軍撃退のために死力を尽くして動いているのだろう。文官の覚兼がここまで頑張っているのだから、要衝を預かる自分はまさに死ぬ気で働かねばと、新納忠元は決意を新たにした。
大友軍の先発隊二万が島津義弘と対峙して数日。
総大将・大友宗麟の中軍二万、大友義統の後詰四千強はいまだに豊後と北日向の国境付近に留まったまま、動く気配はなかった。島津義弘はわずか二千の軍で先発隊の攻撃を巧みにかわし、日向中部への侵攻を許してはいない。もっとも、敵が全軍で進撃すれば、いかに島津義弘といえども支えきれない。まだ迎撃準備が整っていない島津家にとって幸いなのは、敵の先発隊二万の統率がまるで取れていないことだった。一つの軍を形作る一隊一隊の動きがバラバラで、皆自分勝手な行動をしている。しかも、北日向の豪族・土持氏の残党があちこちで暴れていて、なかなか治安がとれないでいるのも大友の悩みの種であり、島津家にとっては都合がよかった。
よって、このような大軍が相手なら、百錬練磨の実力を誇る島津義弘の二千でも十分に敵を釘付けにすることが出来た。しかも、義弘軍の後方には島津家久の至財部城があり、そこには大量の兵糧と武具、予備兵力として五百の兵もいた。
最前線の防衛はほぼ完璧だな。
地図を眺めながら、島津義久は心の中で微笑んだ。敵の今の状況が続けば、大友の対陣は長引く。対陣が長引けば、苦しくなるのはあちらなのだ。問題は肥後の相良氏だが、そちらの方は上井覚兼と長寿院が何とかするだろう。
「歳久」
「はい」
義久は内城に島津歳久を呼び出し、領内の物資の調達を担当させていた。
「どうだ、前線の物資の補給は」
「問題ありません。ですが、兵が不足していて。大友と正面対決できるほどは、まだ」
「だろうな。いかに今までわしらが兵力の差をくつがえして勝利してきたといっても、今度の相手は総勢四万強。生半可な攻撃では逆にこちらが全滅する」
「大兄上・・・少しは休みましょう。このところ、寝ていないじゃないですか」
「ん?ああ、そうだな」
歳久の言葉に、義久は素直に頷き布団を用意させた。
「では、わしは少し寝る。何かあったらすぐに起せ」
普段の義久なら、今のこの時に素直に寝ることも、優しい顔色になることもなかっただろう。だが、義久の心境は開戦当初とは違い、落ち着いていた。
「心配せず、ゆっくり休んでください」
「大きな敵に直面している。だがな歳久、わしは何の恐怖も感じない」
「・・・」
「お前がいる、義弘がいる、家久もいる。家臣達もだ。お前達がいるから、わしは戦える。最近、そんな気持ちになる」
「まるで年寄りのような事をおっしゃる」
「今度のこの苦境を乗り切ったら、真剣に考えてみるのもいいかもしれん」
「何を、ですか?」
「天下統一」
一瞬歳久は驚いたが、義久は笑いながら寝室に入っていった。
第三十八章 完
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