戦国島津伝




 第四十五章 『鬼武蔵』

 天正九年(1581年)

 島津義久は再び、相良家への攻撃を開始した。

 「歳久に五千の兵を与えて進軍させろ。出水、大口の義虎と忠元に水俣城への進軍路を確保させる」

 内城への軍議はそれほど長くはかからなかった。「まずは相良を倒す」、これは家中内部で共通の取り決めであったからだ。





 命令を受けた島津義虎、新納忠元の両将軍は、それぞれ二千の軍勢を率いて出陣。

 「まずは矢筈岳を越えよう。そこを越えれば肥後の国だ」

 「前回と同じで水俣城を包囲し、相良家に止めを刺す」

 前の戦では手痛い反撃で攻略失敗した水俣城。両将軍にとっては、意地にかけても陥落させたい城である。





 久七峠に布陣した東郷重位は、いつでも相良家の本拠地・人吉城を直接攻撃できる態勢を整えていた。

 島津義久が用意した策の一つ、『牽制』である。ここに東郷軍がいれば、相良義陽は水俣城に救援を送れない。

 国見山地を越えて、宮ノ尾山を越えれば、人吉城に到達できる。

 「相良も今日までだな」





 内城

 「水俣城を陥落させれば、相良家は降伏するか滅亡するかだな」

 島津義久の周りには上井覚兼、伊集院忠倉、伊集院忠棟、長寿院盛淳が座っていた。相良家領内への周到な下準備は実を結び、すでに多くの豪族や土豪が相良を見捨て、島津に帰順を申し出ている。

 「第二次相良家攻略は九分九厘成功するでしょう。後は、成功した後の始末をどうするかです」

 覚兼が口火を切った。

 「九分九厘と決め付けるのは時期尚早では?まだ相良には阿蘇家が味方している」

 阿蘇家は肥後国の東北部に勢力を持つ小大名。大友や相良と親密な関係を持ち、最近では肥前国の龍造寺家とも結んでいるらしい。

 「無駄でしょう父上。阿蘇家も馬鹿ではない。もう助かる見込みの無い者をわざわざ助ける奴らなど、この戦国の世にはいない」

 伊集院忠倉と忠棟親子の話を、長寿院と覚兼はじっと耳を傾け、義久は地図を眺めていた。





 数日後、島津義虎と新納忠元は水俣城に到着した。水俣城の城主は犬童頼安。守る将兵を指揮するのは岡本頼氏。





 城に放った間者の報告を待たず、新納忠元は先鋒として攻撃を開始した。その勢いは凄まじく、三の丸の城門は数時間で破壊された。その後は岡本率いる守備隊が奮闘し、膠着状態が続いた。

 「やれやれ、忠元殿ももう少し落ち着けば良いのに」

 「義虎様、不知火海付近の豪族が数名、帰順を願い出ております」

 「よ〜しよしよし。認める、認めるぞ!」

 肥後国の豪族の過半数が島津に帰順。これは島津義虎の人柄、そして彼が島津一門であることが大きく関係している。彼が保障してくれるなら、自分達の立場も取り敢えず安泰。それが豪族達の本音。

 「でっ。忠元殿の様子はどうよ?」

 「はっ!忠元様の軍勢は三の丸を突破して二の丸に・・・ですが敵の抵抗も激しく、現在は膠着状態です」

 つまりもっとも酷い状態になっているという事。矢や鉄砲が飛び交い、常に血が飛び出る修羅場。正直、義虎はそういう場が好きではない。というより戦が好きではない。

 「は〜。歳久様の本隊は?」

 「二、三日中には到着の予定です」

 「前線への物資援助は?」

 「今のところは、大丈夫ですが」

 「そうか、じゃあわしらは本陣でしっかり体力を温存させないと」

 そう言って、義虎は床に横になった。





 内城からは絶えず報告が入ってきた。特に眼を引いたのは新納忠元の働きだ。

 「一日に三度突撃してわずかな休憩。その後は更に四度の突撃。これの繰り返しです」

 覚兼の報告は事務的であったが、言葉の裏には正直に『すごい奴だ』という感情がにじみ出ていた。

 「さすがは、鬼武蔵。我が軍自慢の将だ」

 新納忠元は島津義久のご指南役からずっと島津軍を支えてきた歴戦の将だ。その彼の役職が武蔵守(むさしのかみ)だったことから、付いたあだ名が『鬼武蔵』。

 「相良義陽は動いたか?」

 「いいえ、東郷殿が上手くやっているらしく。動いてはいません」

 「ふむ、阿蘇家は?」

 「忠棟殿の言葉通り、動きませんな」

 じっと上座で外を見る義久。

 「一つ、面白いことを聞きましたが・・・」

 「何だ?」

 上井覚兼が話したのは、水俣城の城主・犬童頼安と新納忠元のちょっと変わったエピソードだった。





 突撃を繰り返す新納軍だが、ある時新納忠元が城に向かって矢を放った。矢には紙が結んであった。

 『秋風に水俣落ちる木の葉かな』

 そう紙には書かれてあったらしい。その後、城から矢が飛んできた。

 『寄せては沈む月のうら波』

 城主の犬童頼安が書いたものだった。これが有名な水俣城攻略戦の返歌である。

 簡単に説明すると『いずれ水俣城は落ちるでしょう。いいや、何度来ても水俣は落ちないよ』ということである。

 「そんな事に何の意味がある?」

 「新納殿も犬童殿も和歌をたしなむ文化人ですからな、何かと気が合ったのでしょう」

 「戦場であっても、己を見失わない。・・・か」





 島津歳久の本隊が合流したのはそれから更に数日後。全軍がホッとする中、新納忠元の攻撃力は変わらなかった。一応、島津歳久は総大将なので本陣に居座った。だから前線にいる忠元がどんな状態なのか知らない。それは後方援護に回った島津義虎も同じだった。





 運命の日は水俣城の攻撃が始まって一ヵ月後の十月。遂に城が陥落した。これでもかと言うほど城も人もボロボロだった。

 「おお!遂に水俣が落ちたか、殿に報告しろ」

 「はっ!」

 「いや〜、めでたいですな〜」

 祝いの言葉は、新納忠元の姿を見た途端に終わった。

 「た、忠元」

 「どうか・・・しましたか?歳久様」

 人間の姿ではなかった。全身の鎧は崩れ落ち、矢が刺さり、皮膚は血で真っ赤だった。

 まさに『鬼』という形容が相応しい姿。

 「これで、相良は・・・終わり。島津の・・・未来は」

 それだけ言うと、忠元はぶっ倒れた。





 水俣城陥落の報は内城に伝わり、義久はすぐに人吉城に使者を遣わした。

 「これで南肥後は我ら島津がもらう。今回の戦の功労者は」

 当然、家中の誰もが新納忠元だと思っていた。だが。

 「島津義虎殿じゃな、間違いなく」

 うんうん、と頷いているのは上井覚兼だけである。

 「あのう〜」

 伊集院忠棟が手を上げる。

 「何だ?」

 「なぜ、義虎殿が?」

 すかさず、覚兼が南肥後周辺の地図を見せる。

 「この地方一帯の豪族は全て島津に帰順している。これは義虎殿の功績である。忠元殿は目先の城しか相手にしなかった」

 「つまり今回の戦で大事だったのは、城を落とすことではない。周辺地域を島津の色に染める事だ。城一つ落としても、地図の上では点が一つ増えるだけだ」

 全体的に武闘派の集団が多い島津家中では、こんな事は今までない事だった。

 「まあ確かに、忠元は良くやった。だが義虎殿は更に良くやったということだ」

 戦で手柄を立てる。敵地で味方を増やす。どっちが得なのか、家臣達はしばらく黙っていた。





 相良忠房と頼房の兄弟が来たのはそれから直ぐだった。いわゆる人質である。最初は金と書状で降伏を申し入れてきた相良家であったが、義久が許さなかった。それで今度は深水長智(ふかみ ながとも)という男が外交官としてやってきた。だがそれでも義久は一方的に島津側の要求を押し付けた。人質か、それに見合う物。

 結果、相良義陽の幼い息子達が来たのである。





 内城

 「肥後を手に入れるには、後一つ片付けておかねばならない事がある」

 「阿蘇家ですか」

 流石に上井覚兼。勘が鋭い。

 「話し合いではどうにもならないでしょうな。何せ、鎌倉時代から続く名門です。それに家臣にあの甲斐宗運(かい そううん)がいますからな」

 「不敗神話を持つ老人一人に、何を恐れる」

 「十分、恐れますけどね」

 北肥後に勢力を持つ阿蘇家。どう切り崩していくか。

 「まあ、安心してください。手はありますから」

 「ほう、どんな手だ?」

 島津の戦いは続く。



 第四十五章 完


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