戦国島津伝
第四十七章 『響ヶ原の合戦』
天正九年(1581年)
島津家は肥後(現在の熊本県)中央部進出のため、降伏したばかりの相良家当主・相良義陽に出陣を命じた。
目的は肥後の大名・阿蘇家が所有する御船城を奪うことである。
ここで義陽は決断を迫られた。かつての盟友である阿蘇家に刃を向けるのか、それとも島津家の意思に反して家を滅亡させるか。
島津家としては、相良義陽が首尾良く御船城を奪えばそれでよし。もし負ければ、それを理由にお家を断絶させればいい。どちらにしても、島津の腹は痛まない。
相良義陽が出した答えは、出陣である。
十二月
八百の軍を率いて相良義陽は八代城から出陣した。軍団には島津側の監視者・島津義弘も同行していた。
八代城を出陣した相良義陽はまず、阿蘇家との境である姿婆神峠を越えて阿蘇家領に侵入。そのまま鬼沙川を渡って山崎村に入り、村内の響野原に本陣を敷いた。
相良軍の本陣選びに、島津義弘は何も疑問を持たなかった。彼は肥後国の地理については何も知らないのだ。全ては相良義陽に任せるしかない。
「義弘様。義陽殿は明日、軍を二つに分けて敵の出城である甲佐城と堅田城を攻めるそうです」
「そうか」
義弘は設置した陣の中で寝返りを打った。兄であり、主君である義久の命がなければ、自分も槍を取って戦いたい。だが義久からは何もするなと言われている。
武将として、これほどストレスの溜まることはない。
「・・・・・くそ」
義弘の怒りは他にもあった。
島津家の相良義陽に対する処遇である。降伏した相良家を、まるで都合の良い道具のような扱い。しかも相手は相良家と深い親交があった阿蘇家。義陽の心情はいかほどのものだろうか。
「清十郎!」
義弘は従者を呼んだ。清十郎は義弘が眼をかけている若者の一人である。
「はい、何ですか?」
「部下に睡眠をとらせろ。お前も寝ろ」
「はっ」
山崎村の夜は静かで、心地よかった。
甲佐城と堅田城は阿蘇家の出城。兵も少なく、打ち破るのは容易い。
相良義陽は軍を分け、同時に二つの城を攻撃する作戦を立案、実行した。
島津義弘は数人の部下と共に、相良義陽の部隊と進撃した。
阿蘇家
当主・阿蘇惟将は、老将・甲斐宗運に出陣を命じた。
甲斐はまず、敵の本陣がどこにあるのかを物見(ものみ)に探らせた。
相手は肥後国の地理に通じている相良。簡単な場所に陣を張っているはずはない。
宗運は相良義陽の顔を思い出していた。あの聡明で、精悍な顔つきの若武者。彼と戦う事になるとは・・・・宗運の心情は複雑だった。
甲佐城は苦労せずに陥落させた。間も無く堅田城も落ちるだろう。
義弘から見ても、相良義陽の手腕はたいしたものだ。流石は武勇で鳴らした君主である。兵達も良く命令に従っている。
「いや〜、相良軍の動きは颯爽(さっそう)としていて気持ちが良いですな」
清十郎がコソコソと義弘に近づいてきて言った。
「無駄口叩いてないで、さっさと本陣に帰るぞ」
小さな丘の上で高みの見物をしていた義弘一行は、そのまま山崎村に帰還した。
甲斐宗運は耳を疑った。山崎村に敵本陣があると報告があったのだ。
「本当に山崎村なのか?」
「間違いありません。敵は山崎村に本拠を置いております」
「信じられん、なぜ鬼沙川を渡った・・・」
宗運に言わせれば、山崎村は軍略的に痛恨のミスポイントである。そこに本陣を敷くとは、あの慎重な相良義陽にしては信じられない。
「なぜだ」
思わずそう呟いた宗運の言葉は、薄暗い空に吸い込まれていった。
十二月二日 未明
甲斐宗運は軍隊を率いて山崎村に迫った。
「鉄砲隊、二手に分かれて村を包囲しろ。合図があったら一斉に発砲し、撃ち終わったら突撃じゃ」
「「「はっ」」」
相良軍は山崎村で全員ぐっすり眠っていた。相良義陽も、島津義弘も。だがその眠りは、物凄い轟音と共に破られる。
義弘はその時、何が起こったか瞬時に理解した。敵襲である。
平穏だった村内は絶叫と叫び、雄叫びに包まれた。義弘は槍を手に取り、外に飛び出した。既に火の手が上がり、誰が誰やら分からない。
馬に乗った清十郎が駆け寄ってきた。
「義弘様!」
「清十郎、馬を連れて来い。薩摩に帰還するぞ」
「私の馬を」
「お前はどうする!?」
「とにかく私の馬を!」
半ば強引に義弘を馬に乗せ、清十郎は馬の尻を叩いた。
攻撃は突然始まり、呆気なく終わった。
山崎村には硝煙の臭いと、まだ暖かい死体だけが残った。相良軍は四散し、おもだった武将も大半が戦死した。
甲斐宗運は、兵士に連れられて相良軍の本陣に到着した。
「!」
そこには、腹を真一文字にかっさばいた相良義陽の遺体があった。
「義陽殿・・・」
宗運は何も言わず、その場を去った。乱世なのだと、自分に言い聞かせて。
第四十七章 完
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