戦国島津伝
第五十章 『家久の憂鬱』
天正十年(1582)の六月
京を制圧し、天下に最も近いと言われた織田信長が死んだ。
「家臣の明智光秀に討たれたそうです」
部下の報告に、島津歳久は厳しい顔をする。
「家臣に討たれた?・・・ふん、呆気ないものだ」
織田家の拡大は、島津家にとっても用意ならざる事態であったことは間違いない。
実際、四国の長曽我部(ちょうそかべ)・中国の毛利なども織田家の攻撃に苦しんでいた。
いずれは両雄を倒し、この南九州にまで攻めてくるかもしれなかった。
・・・それがどうだ。
主君の信長は家臣の謀反で死んだ。奴がいなければ、織田家もお仕舞いだろう。
古来より、英雄を失った国はもろくも崩れ去る運命だ。
「歳久様、殿が至急内城に参るようにと」
「・・・分かった」
内城に歳久が到着すると、既に多くの家臣達が集まっていた。
どの家臣も厳しい顔、穏やかな顔をしている。
考えて見たら、織田家は島津家に対してかなり強気な態度を取ってきた大名だった。
島津が大友家の豊後に侵入しようとした時も、相手の肩を持って攻撃中止を勧告してきた。いわば口うるさい王者面した家だったのだ。
その家の当主が死んだ・・・誰でも多少嬉しいはず。
だが、末弟の家久だけは、暗い顔をしている。
歳久は家久の横に並んで話しかけた。
「家久、どうした?暗い顔をして」
「・・・ああ、歳久兄さん」
「何か嫌なことがあったのか」
「いや、別に」
「?」
そう言うと、家久はさっさと部屋に行ってしまった。
部屋に入ると既に義久がいて、家臣達もズラリと座っている。
「聞いていると思うが、京の織田信長が死んだ。志半ばで死んだ彼の無念を思うと、わしも少しばかり心が沈む思いだ」
家臣達はみんな、静粛に義久の話しに耳を傾けている。
義久の話はそれからも続いたが、歳久は家久の暗い顔ばかり気になって仕方が無い。
「とまあ・・・織田家に対してはこれだけで良いとして。我々に直接関係する話題に移ろう」
全員、明らかに雰囲気が変わった。さきほどまでの静粛な空気から、熱の籠もった空気に変わる。
「島原半島の有馬晴信殿が、我らに密書を送ってきた」
「有馬氏が?」
一人の家臣が低い声を出す。
有馬晴信は島原半島の大名で、今は龍造寺隆信の配下になっている。
「単刀直入に言うと、有馬は龍造寺から抜けたがっているらしい」
無謀な・・・と、歳久は思った。
龍造寺は大友が『耳川の合戦』で我々に負けた時から積極的に領土拡大を続け、現在は大友領である筑後(福岡県南部)に攻め入り、三池・蒲池・黒木・田尻らの豪族や国人を屈服させている。
その龍造寺と正面から戦う気なのか・・・有馬家は。
「我らとしては有馬晴信の要請に応えて龍造寺と戦うか。皆の意見を聞きたい」
長い議論が、始まった。
結局その日、答えは出なかった。
有馬氏の決意がどれほどなのかも分からないし、龍造寺氏は巨大だ。
それに島津家には片付けなくてはならない問題が他にもある。
肥後の大名・阿蘇家との決着である。
現在の阿蘇家は、当主の阿蘇惟将が先月に亡くなり、跡を継いだ弟の阿蘇惟種もわずか一ヶ月で死んだ。
島津が付け入る隙は十分にある状態なのだ。
島津義久は家臣達を返した後、弟達だけを部屋に残した。
「さてと、今後の方針について、お前達の表裏ない意見が聞きたい」
「ではまず私が」
膝を進め、歳久が口を開く。
「薩摩、大隈、日向、それに肥後の一部を有した我が家が次に目指すべき敵は、北肥後の阿蘇家であると考えます」
「ふむ」
「豊後の大友にかつての勢いはなく、筑後の秋月種実殿だけで十分に対処出来るでしょう」
筑後の国人である秋月種実(あきづき たねざね)は、かつて大友家に攻められ降伏した小規模の大名。
現在は島津家と同盟を結び、領土を拡大させている。
「阿蘇家は甲斐宗運が健在だとは言え、南は我らから、北からは龍造寺の圧迫を受けて苦しんでいる状況・・・まずは阿蘇家を討ち果たすが先決と思います」
「なるほど、義弘と家久はどうだ?」
義弘は何も言わずに頷く。自分も同じ意見だと言う事だ。
家久も黙って聞いていたが、やはり顔は暗かった。
島津義久は北薩摩の島津義虎・新納忠元に軍備を整えさせ、再度の阿蘇家攻撃を計画。
その報告を聞きながら、家久は居城から空を見た。
織田信長・・・天下に最も近かった男。
天下に最も近かったということは、天下統一が目前だったということ。
つまり戦国の終わりが近かった、はずなのに。
「まだ、乱世は続くのか・・・」
そう思っただけで、家久はどこか憂鬱な気分になった。
それから数日後、家久に鎌田政年が死んだという報告が届いた。
島津忠良から「島津は永遠に鎌田の功績を忘れない」とまで言われた歴戦の勇将。その彼が死んだ。
しばらく、家久の憂鬱は続きそうだった。
第五十章 完
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