戦国島津伝
第五十一章 『島原争乱』
織田信長・・・鎌田政年・・・みんな死んでいく。
体のあちこちに刀傷や矢傷の跡が残る鎌田政年の遺体を前にして、島津家久は暗い冥想の中にいた。
昨日まで元気だった鎌田は、自室で眠るように死んだ。
昨年まで天下統一を進めていた織田信長は、家臣の謀反で死んだ。
彼らの人生は、幸せだったか?満足だったか?
乱世などなければ、もっと長生きが出来たのではないか?
私は、その乱世に貢献しているだけなのでは?
冥想にふける父の姿を、島津豊久は部屋の外から見ていた。
天正十二年(1584年)
西北の雄・龍造寺隆信の勢いは益々巨大となり、彼は「五州の太守」とまで言われた。
だがその影で、隆信の生活はどんどん荒れていった。
息子の政家に家督を譲ったものの、依然として権力を掌握。酒色に溺れる毎日。
しばしば重臣の鍋島直茂らが隆信に注意をうながすが、逆に怒りを買って地方の城に飛ばされる始末。
誰もが彼の言動に怯え、恐怖した。
肥後の国人・赤星統家もその一人だった。彼は龍造寺軍の前に降伏し、幼い二人の子供を人質に出して隆信の信頼を得ようとした。
だが、その期待は裏切られる・・・最悪の形で。
その日、赤星統家は居城(というよりも館)で書物を読んでいた。
歴代の赤星家の功績を記した教科書。幼い頃読んだ物が偶然出てきたのだ。
その本を読みながら、統家は人質に出した子供達のことを思った。
(今頃・・・何をしているだろう?)
男の子と女の子の幼い二人。この城を出て行くとき、ずっと泣いていた。
いつか必ず迎えに行くと言って、強引に龍造寺家に預けた。本当は、人質になど出したくはなかった。だが生きていれば、また会えるはず。
本を閉じて、家臣を呼ぼうと口を開きかけたとき、廊下から騒がしい音が聞えた。
「統家様!統家様!大変です!!」
入ってきた初老の家臣は、顔面蒼白で体が震えていた。
「どうした?何事だ」
「わ、若様達が・・・若様達が!」
統家はしばらく、その場から動けなかった。
龍造寺隆信は赤星統家に謀反の疑いがあるとして、人質の子供二人をはたもの・・・つまり磔刑にした。
赤星の怒りは凄まじく、彼は血の涙を流した。
島津義久の下に、赤星統家から書状が届いたのはそれから間もなくだった。
「恨みは骨髄に染みる!どうか急ぎ八代に行き、島津義弘殿を派遣してください。私は毎日、紅い涙を流しています。どうか義弘殿を遣わし、私に隆信を討たせてください!」
そういう内容の文章を見て、義久は正直困っていた。
このまま統家の要請に応えれば、龍造寺と全面戦争となる。果たしてそれが吉と出るか凶と出るか。
衝撃的なニュースはまだ続いた。
島原半島の大名・有馬晴信が、龍造寺隆信に反旗をひるがえしたのである。
半島の南部にある日野江城を本拠地としていた有馬氏は、降伏したことで龍造寺家に取られた旧領を回復しようと、決死の覚悟で立ち上がったのだ。
当然、島津家には有馬晴信からの援軍要請が届いた。
有馬氏決起を喜んだ赤星も、一緒に救援に向かおうと島津家に誘いをかける。
(わしは、どうしたら良いのだ・・・)
苦悩する義久は、部屋に誰も近づけず、考え続けた。
義久が決断を出しかねている間にも、情勢はさらに緊迫した。
最初、龍造寺隆信は息子の政家に有馬氏討伐を命じた。だが政家の妻は有馬家の人間であったため、政家はなかなか出陣しなかった。
これに腹を立てた隆信は、自ら出陣することを決意する。
三月十九日、有明海を渡って島原半島北端の神代海岸に龍造寺隆信が軍勢を率いて上陸。
島原争乱の火蓋が切って落とされた。
第五十一章 完
もどる