戦国島津伝




 第五十四章 『関白の影』

 天正十二年(1584年)

 島津・有馬連合軍は龍造寺軍を破り、総大将・龍造寺隆信は戦死した。

 首は薩摩に送られた後、肥前に返された。

 強力な主君を失った龍造寺家は、島津家に臣従を誓うことになる。

 もはや、九州で島津家に独力で対抗できる勢力はいない。

 島津家に残された宿敵は、肥後の阿蘇家・豊後の大友家のみとなった。





 その頃、中央では羽柴秀吉が台頭していた。

 織田信長亡き後、急速に勢力を拡大した秀吉は、『賤ヶ岳の戦い』・

 『小牧・長久手の戦い』などを乗り越えて実権を握った。

 1583年には大坂に城を築き、『大坂城』を建設。

 羽柴秀吉の名は天下に鳴り響いていた。





 九州・竜ヶ水付近の城・吉田城

 島津歳久は次の戦略を練っていた。

 『木崎原の合戦』・『耳川の合戦』・『沖田畷の合戦』など、圧倒的な大軍を相手に勝利を重ねた島津家の武勇は、まさに向かうところ敵無し。

 「九州統一も夢ではない・・・」

 無意識に口に出した歳久だが、それは家中の誰もが思っていることだった。

 九州を統一できれば、天下への道が開ける。

 「我が島津が、天下に・・・」

 南九州の名家に過ぎなかった島津が、天下に旗を立てる。それが武士にとって、どれほど感動的なことか。

 自然と、歳久の顔に笑みが浮んだ。





 天正十三年(1585年)

 吉田城で妻と一緒に将棋を楽しむ歳久。

 パチ!パチ!パチ!

 歳久の顔色が変わる。どうやら敗色濃厚のようだ。

 「ま、待った!」

 「待ったなしです」

 ニコニコしながら駒を打ち続けるつづみ。彼女のおかげで、駒も将棋盤もピカピカの光沢を放っている。

 考える歳久に、廊下から人の声が聞えた。

 「歳久様」

 「梅北か?」

 「はい」

 「なにようだ?」

 「ちょっと」

 つづみは無言で立ち去り、梅北が部屋に入ってきた。

 「すみません、奥方様とお楽しみのところ」

 「いや、構わん。それでなんだ?」

 「実は、羽柴秀吉という者が関白に就任したそうです」

 「何、関白に!?・・・それで、秀吉とは誰だ?」

 「今は亡き織田信長の家臣で、主家を事実上掌握し、天下随一の勢力を持っている男です」

 「ほう、そんな男がいたのか。関白になったということは、さぞかし名家の出身なのであろうな」

 「・・・・・」

 「どうした」

 「秀吉は名家どころか、生まれもいやしい農民であるらしいです」

 「まことか!?」

 「まだよく分かってはいませんが、関白になれるような名家の生まれでないのは確かです。話によると、足軽から出世して今日に至っているとか」

 「関白は公家の最高職ではないか、それをそんな者に任命するなど・・・朝廷は何を考えている」





 羽柴秀吉の関白就任は全国の大名が知ることとなった。

 農民くらいの地位から出世した男が、関白になるのはもちろん前代未聞である。

 この事から世間では秀吉を「戦国一の出世頭」と呼んだ。





 島津家でも秀吉の関白就任の情報は届いたが、誰も危惧を覚えなかった。

 「珍しい男もいたものだ」

 というくらいである。

 だが、島津歳久だけは警戒した。

 「体一つで身を興したのならば、ただものではない」

 歳久は背筋に寒いものが来るのを感じていた・・・。





 島津義久は、肥後の阿蘇家攻略を計画した。

 なぜなら今まで阿蘇家を支え続けた名軍師・甲斐宗運が亡くなったからである。

 「宗運が死んだ、いまこそ阿蘇家を攻める好機!!」

 馬越城の新納忠元は五千の軍勢で北肥後に侵入。

 この緊急事態に、阿蘇家は大パニックとなった。

 領民は逃げ出し、主だった家臣は闘わずに降伏した。

 とりわけ悲惨だったのは、まだ二歳の当主・阿蘇惟光である。

 母親に抱かれて城を脱出した惟光は、わずかな家臣と悪路を進み、目丸山に引き篭もった。

 こうして鎌倉時代から続く名家・阿蘇氏は、島津軍の侵入にあっさりと降伏した。





 戦勝に浮かれる島津家だが、その直後に衝撃的なニュースが届いた。

 出水島津家の当主・島津義虎が死亡したのである。

 「義虎が死んだ!?まことか!」

 「はい、朝早く郎党が起こしに行きますと、布団の中で眠るように」

 「そうか、あの義虎が」

 島津一門では当主の義久に次ぐ地位にあり、3万1900石の禄高を領した島津義虎。享年五十歳であった。





 肥後全域を征服した島津家に残された敵は、豊後の大友家。

 平田光宗が冷静に現状を報告する。

 「かつての力は無いにしても、さすがは大友家。頑強に我らと戦う構えです」

 「・・・立花道雪、高橋紹運といった名将もいまだ健在。筑前の秋月種実殿も動きが取れぬか」

 「その秋月殿から書状が来ています。何でも、立花道雪は病気でまもなく死ぬであろうと」

 「ほう」

 大友家の看板武将・立花道雪。彼が死んだら、いよいよ大友家もおしまいである。

 「秋月殿もなかなか使える・・・平田」

 「はっ」

 「忙しくなるぞ」

 「承知しております」





 島津家が着々と九州制覇に乗り出している頃、秀吉の天下統一も進んでいた。

 四国の長宗我部元親は、秀吉軍の前にわずか2〜3週間で降伏。

 中国の毛利輝元も秀吉に人質を送って臣従を誓った。

 もはや秀吉が関与していない地域は、東北と九州のみとなっていた。





 天正十三年(1585年)十月

 島津家に秀吉から書状が届いた。

 「あの秀吉から書状?」

 この時、秀吉から島津家に送られた書状はいわゆる惣無事令(そうぶじれい)。

 つまり大名間での私闘を禁じた豊臣平和令である。

 島津家からの圧迫を受けた大友宗麟は、秀吉に和睦の使者になってもらおうと考えたのだ。

 しかし、島津家はこれを受け入れなかった。

 「成り上がり者の秀吉ごときの言う事を、なぜ聞かねばならん!」

 島津義久・義弘の兄弟は完全にこの書状を無視する方向で一致団結。

 一方、島津歳久・家久は警戒した。

 「いかに成り上がり者とはいえ、秀吉は天下一の出世頭。ただの凡愚でないことは確かです」

 「秀吉の知略は侮れないものがあります。もし九州統一が兄さんの願いなら、早急に済ませてしまうのが上策」

 言いながら、家久の気分はどこか明るくなっていた。

 (秀吉が天下を治めつつあるのは確かだ。・・・天下統一を成し遂げるかもしれん)

 どうして気分が明るくなるのか、家久には分かっている気がした。



 第五十四章 完


 もどる
inserted by FC2 system