戦国島津伝




 第六十二章 『九州戦争〜激闘編〜』

 義久に見送られながら出陣する島津軍。その中には総大将として、義弘が従軍している。

 「義久様、津賀牟礼城(つがむれじょう)の入田宗和は密書にて我らに味方すると言っています。豊後に楔(くさび)を打つこと、家久様の計略が一つ成功しましたな」

 重鎮の平田光宗の言葉に、義久は無言で頷く。

 「家久様もようやく、本腰を入れてくれたようですな」

 島津家久は豊後攻略に対して、多くの大友家家臣を味方に引き入れようと画策している。その一つが津賀牟礼城の無血開城。

 更に大友家南郡衆の謀反も成功させ、豊後は内から徐々に切り崩されている。

 「豊臣家との戦、義弘様と家久様がいれば、用意に防ぎ切れましょう」

 その言葉にだけ、義久ははっきりと声に出して返答した。

 「そうだ、豊臣家など、我らの力なら造作もない」

 口元に自虐的な笑みを浮かべて、義久は平田を見た。





 一方、日向から豊後を目指す島津家久は遂に国境の梓峠を越えた。

 馬上から家久に近づく山田有信。

 「このまま進むと、朝日岳城にぶつかりますな」

 「そのようだな」

 伊集院久春、島津豊久も近づいてきた。

 「父上、我が軍は一万。朝日岳城の兵は数百。押せば城は半日で落ちます」

 「その通りです。豊後侵入の手始めに朝日岳城を落とし、日向兵の力を大友兵に見せ付けましょう!」

 鼻息を荒げる久春だが、家久は半分以上聞いていない。

 「城攻めは愚の骨頂、孫子も言っているぞ。覚えておけ豊久、戦わずして勝つことこそ、最善の方法だ」

 有信はニヤリと笑うが、豊久と久春はポカンとしている。

 「有信、朝日岳城の柴田紹安に書を送れ。誠意のこもった文書でな」

 「了解、長寿院にやらせましょう。あいつなら万事うまくいく」

 「そうだな、あいつが良い」

 「「?」」





 暗い夜道を走る一団。

 彼らは長寿院盛淳が率いる薩摩の間者達である。

 朝日岳城を守る柴田紹安に山田有信の密書を渡す。それが彼らの目的。

 その為なら命を惜しまず、危険な場所に侵入する農民の間者達。

 恐るべき攻撃力を誇る島津軍だが、その強さは実戦だけで証明されたわけではない。指揮官から兵卒に至る全ての将兵がいかに一致団結して事に当るか、本当の強さとはそこにある。





 全身を黒い服で覆った一人の間者が茂みを探る。経験上、城への通路はこうした場所にあることが多い。

 「・・・・・」

 軽く手を振って仲間を呼ぶ。全員眼が闇に慣れているので、こうした動作だけで意思の疎通が出来るのだ。

 「あったか、日暮?」

 背後から近づいた男は間者集団を束ねる長寿院盛淳。やはり全身に黒服を着ている。

 「はい、これで間違いないかと」

 日暮と言われた人物は、声からしてどうやら女のようだ。

 長寿院が茂みの奥を覗き見る。確かに通路の入り口がわずかに確認できる。

 「よくやった。お前達はここで待て」

 「隊長。私が」

 「止めろ、お前にはまだ早い」

 通路を発見した女間者を制し、長寿院は一人で穴に飛び込む。





 城の中では殺気だった兵士が辺りを見張っている。まだ島津軍と戦っているわけではないのに、殊勝な心がけだ。

 (本丸か・・・ここからは走るか)

 完璧な任務達成。それが長寿院のような者に課せられる絶対条件。

 失敗は、直接の死に繋がる。

 音を消し、自分の気配も消し、長寿院は城の中に潜り込む。

 その日、周囲には月も出ていなかった。





 島津軍が豊後攻略に動くなか、九州東北部に位置する豊前国では毛利軍と高橋軍の激闘が続いていた。

 島津家に味方する筑前の秋月種実。その五男である高橋元種は豊前国にて毛利軍侵攻を全力で防ぎ、島津家を待っている。

 香春岳(かわらだけ)を拠点に攻防を続ける高橋軍、その先鋒を務めるのは権藤種盛という高橋家の家臣。

 彼は香春岳の支城小倉城に立て籠もって防戦している。目の前には毛利軍3万。指揮する男は名将小早川隆景。

 小倉城守備兵はわずかに数千だが、種盛は一歩も引かない。

 「来るか毛利!ならば矢玉を揃えて迎えてやる!!」

 武勇で知られる男の意地がそこにあった。





 肥後から出陣した島津義弘は、八代から阿蘇郡を経て10月23日に直入郡の西南部に到着。早速、津賀牟礼城の入田から書状が届いた。

 密書扱いではなく、公式的な書状である。

 本陣に諸将を呼んだ義弘は、その内容を皆に話した。

 「津賀牟礼の入田が降伏してくる」

 腕を組んでそう告げる義弘に周りから驚きの声が上がる。

 津賀牟礼城はただの城ではない。豊後五牟礼と呼ばれる名城の一つだ。

 ※牟礼(むれ)・山という意味

 「やりましたな義弘様。津賀牟礼城は豊後でも名の知れた堅城。これを手に入れれば、豊後攻略はいよいよ容易くなりますぞ」

 家臣のその言葉にも、義弘はじっと目を閉じて沈黙する。

 「義弘様?どうしました」

 「津賀牟礼城を守る男は入田宗和。大友家一族の一人である奴の裏切りは、大友にかなりの打撃を与えるであろうな」

 「当然でありましょう。彼が味方についたと分かれば、他の大友家家臣も続々と我らに」

 義弘は立ち上がり、本陣から出た。

 「義弘様!?」

 風でなびく陣を見ながら、猛将は独り言を言う。

 「・・・・・無常だな」

 かつては九州最大の勢力を誇っていた大友家。それがいまや豊前と豊後に押し込められ、多くの家臣達から見放される。

 浮世の哀しさ、空は今日も青い。





 翌日の10月24日、島津義弘は2万5千の軍勢を率いて津賀牟礼城に入城。ここに本陣を置いた。





 話は前後するが・・・。

 豊後国・府内

 現大分市に位置するこの都市は、豊後の国府にして大友宗麟の住居がある。ここを拠点に大友豊臣連合軍は島津に備え、総大将の秀吉を待つ。それが彼らの必勝戦略。

 しかし、現在の大友家当主・大友義統は日に日に到来する四国の援軍に大きく勇気付けられた。

 度重なる失敗と敗北に消沈していた闘志。

 それを彼は取り戻したのだ。

 手始めに義統は豊後から豊前に出陣。島津家久の作戦に乗った反乱軍が領地の宇佐郡内で決起したため、それを鎮圧するためだ。

 この出兵に対する記録が『日本西教史』(第八章)に

 「そもそも讃岐の国主(仙石秀久)は、豊後の援軍として来れども、之を防守することなく、却てフランソアー(大友宗麟)に従わず、その子の当国主(大友義統)と軽率なる謀(はかりごと)を似て、二人共に豊前国に侵入して、之を打ち破りければ、薩摩の国主は、その検挙を幸として、備えなき豊後の国に攻め入り」とある。

 讃岐の仙石秀久、豊後の大友義統に秀吉の命令を聞く意思はなかったということだ。

 かくして10月3日、四国の軍団を引き連れて大友義統は豊前に出陣した。





 話は戻り・・・。

 10月24日、津賀牟礼城に入った島津義弘は豊後国に当主がいないことを察知した。

 「義統が四国の軍団を連れて豊前に侵攻した。まさに、好機である!」

 2万5千の兵士を前にして義弘は高らかに宣言した。

 「豊後に突入する!!」

 瞬間、周囲には兵の雄叫びがとどろいた。





 同じ頃、朝日岳城を無血開城させ、三重郷の松尾山(大野郡三重町)に本陣を置いていた島津家久も行動を起す。

 「豊久、先鋒を任せる。豊後を好きなだけ攻め取れ」

 「心得ました!」

 島津豊久は日向軍一万の先鋒として出陣。肥後から来る島津義弘と足並みを揃え、豊後はまさに絶望的な状況になった。





 しかし、志賀親次、佐伯惟定といったまだ20歳前後の青年武将の活躍が、豊後を窮地から救うことになる。

 志賀は豊後の岡城(竹田市)を守り、佐伯は野津院の栂牟礼城(とがむれじょう)を果敢に守った。





 岡城攻撃を直接指揮する島津義弘は、自ら陣頭に立って槍を振るう。

 「小童が守る岡城。どれほどのものか、試してやる!」

 今年で50歳の義弘にとって、志賀は確かに小童(こわっぱ)。負けるとは思っていない。

 だが、この志賀親次という若者。なかなかの武将であった。

 天険を利用して島津軍を防ぎ、自身も勇敢に城内から弓を放って応戦した。

 いかに勇猛な義弘でも、敵が地の利を使って守る城だけは攻略に手間取る。ここで時間を取られるわけにはいかないが、岩屋城のように大きな損害を出すわけにはいかない。

 「義弘様、先鋒は私にお任せを!」

 島津家きっての勇者、新納忠元が申し出る。義弘は久し振りに血が騒ぎだした。

 「よし、忠元に任せる。後続は俺と忠長で指揮し、絶えず城を攻撃するぞ」

 「承知しました!」





 一方、栂牟礼城を守る佐伯惟定も優秀な若者であった。

 島津豊久率いる島津の攻撃隊を石と弓で次々に撃退。豊久は頭に血がカッと上る。

 「おのれ!槍を寄越せ!」

 部下から槍を受け取ると、豊久は三の丸に突入した。今年で16歳の若武者に、恐怖はなかった。

 「やれやれ、豊久様にも困ったものよ」

 山田有信もそれに続く。

 「有信殿!?ええぃ、続け!!」

 伊集院久春も馬上に乗った。





 攻撃から数時間。

 三者は勇猛果敢に戦ったが、栂牟礼城を落とすことは出来なかった。





 岡城、栂牟礼城での攻防はすぐに大友義統の耳に入った。

 彼は自分の浅はかさを後悔するよりも、島津の侵攻の速度に驚いた。

 敵が岡城、栂牟礼城に到達したということは、自分の父親が居る府内に直接攻撃が出来るということだ。

 大友にとっても、島津にとっても、ここが正念場であることは間違いない!





 朝日岳城で戦局を見守る島津家久は、鋭利な瞳で豊後の地図を見る。

 その顔は、恐ろしいほど冷め切っていた。

 「・・・・・」

 彼の瞳に映るもの。それは豊後の国府であり中心、府内。



 第六十二章 完


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