戦国島津伝




 第七十二章 『若君ご出陣』

 一匹の狼が少年の後から付いて来る。古来日本に生息した『ニホンオオカミ』だ。

 少年が振り返ると、狼は低く唸り声を上げた。それでも、少年はじっと狼を見据える。ニホンオオカミはこちらから襲わない限り、襲ってこない。『送りオオカミ』と呼ばれる現象で、自分のテリトリーから出て行って欲しいだけなのだ。

 「…………」

 少年島津忠恒と狼は互いを睨んで動かない。双方の眼には、不敵な光があった。





 天正十八年(1590年)

 京の島津家屋敷にて結婚式が行われた。島津家当主、島津龍伯の娘亀寿と、島津義弘の次男久保のである。

 亀寿19歳、久保17歳。二人とも顔を赤らめているが、表情は幸せそうだ。

 龍伯及び、家臣達も大満足の結婚式だ。

 「これからは久保様を、若殿と呼ぶのですな。この種子島久時、身命を賭してお仕え申します」

 島津忠長も同調する。

 「ははは、久保様が跡取りなら、殿も安心ですな!」

 三女だが、亀寿は島津家の継承権を持っている。その亀寿と結婚した久保は、事実上の婿養子。龍伯の跡取りであり、次の島津家当主だ。

 普段は仏頂面の龍伯も、この日ばかりは笑顔を見せた。酒を飲み、食も進んだ。秀吉に降伏してから、初めての楽しい日だった。

 (おときにも、亀寿の晴れ姿を見せたかった)

 龍伯の妻・おときは、去年他界した。本当は夫と共に京へ上洛する予定だったが、体調不良で同行しなかった。龍伯も心配したが、秀吉の命令に逆らうわけにもいかない。仕方なく、龍伯は亀寿と京に向かった。





 しばらくして……おときは死んだ。

 更に追い討ちをかけるように、龍伯と無二の友であり、内政や外交で活躍した上井覚兼も死んだ。

 龍伯は疲れ果て、都に対する興味が失せた。もう何もかもどうでもいい、さっさと薩摩に帰りたかった。実際、今でも帰りたい。

 だが帰る前に、娘亀寿を幸せにしたい。跡取りを決めておきたい。だから、亀寿と久保の結婚を決めた。

 (亀寿は姉さん女房だが、この二人なら心配あるまい)

 老君は全てを忘れ、幼い夫婦の結婚を心から祝った。





 数日後

 島津忠長が血相を変えて龍伯の屋敷に来た。

 「殿、関白殿下が北条家攻略に動きましたぞ!」

 「……そうか」

 「我が島津も参戦せよとのことです!」

 天下統一、その言葉が現実味を帯びてきた。北条が倒れれば、東北の伊達も独立は保てまい。

 戦国が、終わろうとしている。

 「どうしますか?やはり殿が自ら兵を率いてご出陣を!」

 「今年で55歳の老人に、お前は腰を上げろと言うのか?」

 「えっ!?いや、しかし、関白殿下が」

 「久保をわしの名代で行かせよ。あいつは戦を知る歳だ」

 「では、我々は?」

 「お前と種子島は付いて行け。天下の大軍勢だ、負けることはあるまい」

 正直、龍伯はやる気がなかった。既に自分の戦国は、終わっている。

 「忠長」

 「はっ!?」

 「息子を……頼むぞ」

 忠長は姿勢を正し、大音声で叫ぶ。

 「お任せを!!」





 若干17歳の島津久保は、島津家の代表として北条攻めに加わった。

 随行する武将は島津忠長、種子島久時。兵数は数千弱だが、士気はすこぶる高かった。

 「よいか!若殿と島津の名に恥じぬ、大活躍をするのだぞ!」

 「「オオゥ!」」

 「た、忠長殿。まだ戦場は遠いのですから、もう少し抑えて」

 「忠長殿ではありません!忠長です!若殿、島津軍は勇気と武勇を誇りにする薩摩隼人。そのような弱腰では、駄目ですぞ!」

 「いや、確かに忠長殿のボリュームは大きすぎる。耳に痛いですぞ」

 種子島久時が横から口を挟むが、忠長は更に大声で反論した。

 「じゃかましい!天下の諸大名に、島津の力を見せ付ける絶好の機会なのだ!黙っていられるか!」

 久保は軽く溜息を吐いたが、その顔は笑っていた。忠長も種子島も、頼りになる武将達だ。この二人がいれば、自然と肝も据わる。

 (私も、情けない姿は見せられないな)

 『丸に十字』の旗を背に、若き君主はしっかりと手綱を握った。





 大隈国 栗野

 飯野城から家族を連れてここに移った島津義弘は、京に上洛する準備を進めていた。

 「義弘様、京に行くのですか?」

 実窓院が声をかける。

 「ああ、もちろんお前も、忠恒も行くぞ」

 「えっ!私達も京に?」

 「うむ、忠恒も今年で14歳。一度くらいは都を見なければな」

 「なるほど、それは良いかもしれませんね」

 「それで、その……忠恒を呼んできてくれ」

 「忠恒を?ご自分で呼べばいいでしょう」

 「ふ、二人だけで話すことがあるのだ。頼む」

 勘の良い実窓院は、義弘が何か自分に言えないことを忠恒に話すのだなと感づいた。だが、あえて追求はしない。

 義弘の秘密など、後々必ず分かってしまうのだ。

 「……分かりました」





 「お呼びですか?」

 島津忠恒が入ってきた。今年で14歳。背も高くなり、顔も実窓院と義弘に似て凛々しい。立派な美丈夫だ。

 「来たか、まあ座れ」

 義弘の前に座る忠恒。彼には呼ばれた理由がまったく分からない。

 (荷物の整理で忙しいときに、何の用だ。この親父は!)

 心の中で毒づく。

 「京に上洛する準備は、進んでいるか?」

 「はい、進んでおります」

 「荷物の整理は?」

 「間も無く完了します」

 「外の荷物は?」

 「…………はっ?」

 一体全体、何を言い出すんだこの男は。

 「父上。意味が、よく分かりません」

 「お前は昔から、城下やその周辺を散歩するのが日課だったな。今でも」

 「…………はい」

 「聞く所によると、多くの女友達を作っておるそうだな」

 ああ、そういうことか。忠恒は理解した。ようするに女達の整理をちゃんとしておけというわけか。





 義弘は、息子が自分の言葉を理解したことに気付いた。これで腹を割って話せる。

 「俺も昔はモテモテだった。だが俺が愛したのは、綾子(実窓院)だけだ。綾子以外の女に手を出したことなど、一度もない。お前はまだ若いし、風貌も立派だ。女友達も作りやすかろう。だがな、男は一人の女を愛せればそれで」

 「お言葉ですが、私は本当に女の『友達』を作っただけです。それ以上の付き合いなど、してはいません」

 忠恒が同年代の少女達に声を掛けるのは、大名が自分だけの家来を作る行為に似ていた。

 『女は男以上に働き、決して裏切らない。もし裏切ったなら、それは男の方が悪い』。これは忠恒の持論だった。

 太った者、痩せた者、美女、醜女……自分を好いてくれるなら、どれも平等であり、忠実な家来だ。それ以上でも、それ以下でもない。

 「父上、私は分別を無くしたお付き合いは誰ともしていないつもりですが」

 「ふん、本当か?」

 「ご自分の息子を……信用できませんか?」

 義弘はカッとなった。まだ14歳の小童が、何を言うか。

 その言葉を、寸前で飲み込む。いや、声に出せない。変わりに出た言葉は、甘いものだった。

 「分かった。お前を信じよう。だが覚えておけ、女と付き合うときは、誠意を持って接するのだぞ」

 自分はどうも家族に弱い。本気で怒れないし、ろくに説教もできない。

 「……心に刻みます」





 部屋に戻った忠恒は、早速下女のおみちに愚痴をこぼす。

 「父上も困ったものだ。一人の女を愛せればよいなどと……仮にも大名が言う言葉か。それに愛など……そんなものが存在するものか」

 13歳になったおみちは、黙って耳を傾ける。

 「人間は考える生き物だ。金、名声、地位、風貌、性格、それらを計算し、他人と付き合う。愛の絆など、何ほどの価値がある」

 おみちは思った。なぜ今日の忠恒は、こうも多弁なのだ。

 なぜこんなに必死になって『愛』を否定するのか。

 「おみち、水をくれ」

 「は、はい」

 慌てて忠恒の盃に水を満たす。忠恒は酒が飲めない。そこら辺がまだ子供だった。

 「京の都か……」

 冷たい水を一気に飲み干し、じっとおみちを見つめる。

 「お前は、都を知っているか?」

 「いえ、全然」

 「だろうな。俺は都に行く。お前も付いて来い」

 忠恒の口調は、『余』から『俺』になっていた。

 「えっ!?よろしいのですか!」

 「ああ」

 「嬉しい。本当に嬉しいです。ありがとうございます。ううっ」

 思わず泣き出すおみち。

 「勘違いするな。お前のような奉公人も連れて行かなければ、誰が京の屋敷の雑用をするのだ」

 「は、はい。私、一生懸命頑張ります!」

 眼に溜まった涙を指で払ったとき、部屋の障子が勢いよく開いた。





 「忠恒ー!!」

 14歳の綺麗な少女に成長したおたかが、忠恒に体当たりを食らわす。

 「ごふっ!」

 「俺も行くぞ。駄目だって言っても行くからなー!!」

 「こ、この無礼者が!」

 「千鶴姫も行くんだろ?あの姫の相手が務まるのは俺くらいだぜ!」

 「お、おたかさん。ちょっと落ち着いて」

 馬乗りになって上から忠恒に懇願するおたか。いくつになっても、この少女の元気と無鉄砲は変わらない。

 「わ、分かった、分かった。お前も連れて行くから、降りろ!」

 力任せに上半身を起こし、おたかを転ばす。少女は後頭部を摩りながら、照れ隠しに笑う。

 「へっへっ、さっすが忠恒。話せば分かる」

 「大丈夫ですか?忠恒様」

 「ええい、不愉快だ!二人とも出て行け!」

 忠恒が城から外に出る理由。それは多かれ少なかれ、おたかの存在が関係しているのではないか…………。





 天正十八年(1590年) 春

 天下統一の最終段階に入った豊臣秀吉は、全国の諸大名を従えて関東に向かった。目標は名門で知られる北条家。

 秀吉は主力を東海道、前田家や上杉家の北方隊を東山道に配置して進軍。長宗我部家と九鬼家の水軍も物資運搬に使用された。

 推定兵力20万の大軍である。

 対する北条家は、5万の精兵を本拠地小田原城に集め、前線基地である山中城、韮山城、足柄城に配置した。





 島津久保率いる島津軍は、豊臣軍主力部隊として東海道を進んだ。

 「まずは黄瀬川に全軍が入る予定らしい」

 「黄瀬川?ええっと、何か有名な地名だったような」

 「源頼朝が平氏打倒の兵を集めた場所だ」

 種子島が手を叩く。

 「はははは、確かに、確かに!若殿は博識ですな」

 はしゃぐ種子島を横目に、忠長が口を開く。

 「ところで若殿。今後の方針は?」

 「山中、韮山、足柄の三城を同時攻撃する予定らしい。そのまま城を抜き、小田原を強襲する」

 「小田原城は天下に聞えた名城。あの上杉謙信も落とせなかったとか」

 「城攻めか……」

 忠長の表情が暗くなる。

 「どうした?忠長殿」

 「うん?いや、その……我々島津軍は昔から、どうも城攻めが苦手でして」

 野戦では無敵を誇る島津軍だが、どうも経験上、城攻めが不得意だ。実際、島津忠長もかつて岩屋城攻撃のときに大損害を受けている。

 彼にとって城攻めは、嫌なトラウマだ。

 「ふふ、日頃武勇を叫ぶ忠長殿が臆しましたか?」

 「なにー!!ふざけるなよ、若造!小田原城など、北条氏直の首ごと吹き飛ばしてくれる!」

 「ではこの種子島、千里の彼方から氏直の頭を撃ち抜いてみせましょう!」

 どこまでも元気な島津軍だった。



 第七十二章 完


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