戦国島津伝




 第七十三章 『若妻』

 京の島津家屋敷。亀寿は編み物をしていた。

 すぐ隣では義母の実窓院も編み物をしている。亀寿とは違い、流れるような速さと的確さである。

 「あいたっ!」

 針が亀寿の指に刺さり、プクッと血が出てくる。もう何度失敗したかわからない。

 「あらあら」

 「う〜、痛いよ〜」

 眼に涙を溜めながら訴える。だが実窓院は、別段気にせず、黙々と作業を続ける。

 「とりあえず舐めて、布を当てときなさい」

 「はあ……私ダメだな、やっぱり」

 「最初はね、誰だってそんなものよ。大事なのは、続けること」

 「女はどうして、こんな苦労をしなければいけないんだろう」

 実窓院が亀寿の後頭部をスパーンと叩く。

 「あいたっ!」

 「その歳で女の苦労を語るのは、二十年早いわよ」

 「う〜……えい」

 亀寿が実窓院の足先を突っつく。

 「ひぇ!」

 ビリビリした感触が実窓院を襲う。彼女は正座をしているのだが、長時間続けると痺れてしまう。これだけは、何年経っても変わらない。実窓院の唯一の弱点とも言える。

 「や、やめなさい。反則ですよ!」

 「えい、えい、えい」

 ツン、ツン、ツン

 「ひぃう!」

 若い嫁の、ささやかな悪戯であった。





 パチン、パチンっと将棋を打つ二人の兄弟。島津龍伯と島津義弘。

 「兄者」

 「何だ?」

 「なぜ久保に千人程度の軍隊しか預けなかった」

 「その程度なら、やたら前線に出ることもあるまい」

 「だが、今度の北条攻め。島津の武勇を関白に示す良い機会ではないか」

 「…………関白か」

 「幾多の群雄が散り、豊臣が天下を制した。俺達はその旗の下、どこまで重要な地位に就けるか。……新たな戦いだと思わないか?」

 「つまり、支配者に媚を売れと言うのだな」

 パチンっと、龍伯が盤上に駒を置く。

 「……兄者の気持ちもわかる。生涯を賭けての天下取りに負けたのだからな。だが意固地になって、いつまでも天下のことに無関心ではいけないだろう」

 「…………」

 「いま島津の歩むべき道は、豊臣家に誠意と忠実さを見せることだと思う。それが関白に歯向かった俺達の、唯一の生き残る術ではないか」

 言いながら、義弘は冷や汗をかいてきた。龍伯がじっと盤上を見つめて動かないからだ。無言の威圧が、義弘の体に伝わる。

 薩摩の豪族が誰よりも恐れ、敬う君主の龍伯。忘れかけていた兄の姿が、そこにあった。

 「……早く打て、義弘」

 義弘は何時の間にか、勝負を忘れていた。





 亀寿と実窓院が編み物に熱中していると、廊下から忠恒が通り過ぎた。

 「忠恒、出かけるのですか?」

 実窓院が声をかけると、忠恒は背中を見せながら返答した。

 「はい」

 「たまにはおみちもおたかも連れて行ってあげなさい。お供の一人も連れないと、危ないですよ」

 「はい」

 亀寿にも、実窓院にも顔を合わせず、忠恒は足早にその場を去った。様子を見ていた亀寿は、あからさまに不平をこぼす。

 「何ですか、あの態度は!まったく、根っからの不良ですね。あれが本当に叔父様の息子なのかしら」

 実窓院の顔が曇る。

 「昔から、手のかからない子だったわ。学問でも、武術でも、人並み以上にこなして。無口で、わがままも言わない。だから私も安心して、あの子をほったらかしにしてしまったのよ。……もう、我が家では居場所を見つけられないのかもしれない……」

 喋りながらも編み物を続ける実窓院だが、その顔は、とても寂しそうだった。亀寿は、何も言えなくなった。

 初めて会ったときから、亀寿は忠恒が嫌いだった。顔は男前だが、腹の中は何を考えているかわからないところがある。強いて言えば、どこか不気味な男だというのが印象に残った。

 (久保様とはまるで違う)

 空を見ながら、今度は遠い戦場にいる久保を想う。忠恒とは正反対に、裏がない好青年。あの明るい笑顔が、亀寿は好きだ。

 (会いたいなあ、久保様に)

 夫を思い出して空を見上げる亀寿の横顔は、まさしく妻のそれだった。





 小田原城 近郊

 北条氏政、氏直父子が立て籠もる小田原城。この天下の名城を、豊臣秀吉は17万の主力で取り囲んだ。その中に、島津久保率いる島津軍もいた。

 北条攻めが始まってから戦闘にもあまり参加できず、軍全体の空気は和やかなものだ。

 「若殿、北条攻略は間も無く終わりそうですな」

 種子島久時が愛用の鉄砲を磨きながら久保に顔を向ける。

 「既に伊達政宗も関白に降伏した。結果は見えていた戦だったが、予想外に時間がかかったな」

 春から始まった北条攻めだったが、現在はもう6月に入っている。

 「この島津軍を前線に出さぬとは、関白も見る目がないな」

 久保の後ろから島津忠長がのしのしと出てきた。戦場で生きてきた彼にとって、槍を使う機会がないのは屈辱だった。

 「せっかく若殿の初陣なのに、こんな味気ない戦だとは……」

 「忠長、別にいいよ。もう戦の時代は終わる。これからは政の世の中だ」

 「寂しいものですな。戦のない世の中など」

 その言葉に、久保の顔が引き締まる。

 「それは違うぞ、忠長。多くの血が流れた末の世の中だ。武士も農民も、誰もが待ち望んだ世界だ。この平和をずっと続かせることは、戦に勝つことよりも大事だと思え。それこそ、戦乱に散った者達の切なる願いだ」

 種子島も、忠長も、驚いた。まだ17歳の少年が実に大人びたことを言う。島津龍伯が後継者に選んだのも頷ける。

 「若殿……何と大きなお方か。あなたがいれば、きっと島津の御家も安泰ですぞ」

 感激屋の忠長はもはや涙を流している。父島津義弘のような武勇はないが、その人徳だけはしっかりと受け継いでいると確かに感じた。





 「ところで忠長殿は、何か用事でも?」

 「ん?おお、そうだった。実は関白殿下から諸将に連絡がありましてな」

 「連絡?」

 「京から妻を呼び寄せろと言うのです。何でも城に籠もる北条側に優位性を見せ付けるためだとか」

 「ふ〜む、対陣中に妻達を呼ぶとは、関白も大胆なことを」

 このところ関白秀吉は、北条軍の士気を低下させる作戦ばかりを立案していた。城攻めにおける心理戦は、秀吉がもっとも得意とする分野である。

 「まあ若殿。そういう訳ですから、早速奥方様をお呼びになりましょう」

 「か、亀寿をか!?」

 「がはははは、他には誰もおらんでしょう。きっと奥方様もお喜びになりますぞ」

 照れくさそうに頭をかく久保。何と言ってもまだ結婚したばかりなのだ。

 「でも奥方様は輿が苦手ですから、文句を言うかもしれませんな」

 「「ははははは」」





 亀寿が父龍伯に関東へ行けと言われたのは、それから間も無くだった。

 「関東へ?」

 「うむ。小田原を取り囲んでいる久保の下に行くのだ」

 「久保様の所へ……」

 顔が朱色に染まる亀寿。結婚早々出陣した久保に対する想いを抑えるには、彼女はまだ若すぎた。

 そんな愛娘の反応に、龍伯も相貌を崩す。世の中に不幸な結婚をした夫婦は多い。武家社会では特に多い。そんな現実の中で、この娘は幸せそうだ。それが何よりも微笑ましい。

 「関白のご意向でな。北条家攻略の布石らしい。まあ、気軽に行って来い」

 「はい、わかりました」

 久保に会える。亀寿の心はそれだけで一杯だった。最初は頼りない弟のような存在だったが、結婚して身近に接すると、その温かさが心地良く、自分を満たしてくれることを知った。結婚する前は感じなかった、愛おしさが沸いてくる。これが人の妻になるということなのか。

 (久保様……)





 取り敢えずどんな服を着ていこうか相談するため、亀寿は実窓院の部屋に向かった。ウキウキした気分で廊下を進み、あまり前を見ていない。案の定、誰かの背中にぶつかった。

 「あたた」

 「…………」

 亀寿が顔を上げると、そこには忠恒がいた。冷めた目付きで見下ろしている。

 「あっ、ごめんなさいね。前をよく見てなかったから……」

 「…………」

 「そうだ、今度久保様の所に陣中見舞いに行くのですけど、何かお土産に良い物ありませんかね。久保様の好物とか」

 「好物?兄貴の?……握り飯」

 「握り飯!?」

 「母上の作った握り飯。兄貴は何個でも食います。あなたも挑戦してみますか?握り飯を握ったことがあれば、ですけど」

 それだけ言うと、忠恒はさっさと通り過ぎた。

 姿が見えなくなった忠恒に向かって、亀寿はボソッと一言。

 「余計なお世話よ」





 「お母様、私に握り飯を教えてください!」

 「な、何ですか突然」

 「忠恒殿に聞きました。久保様の好物は握り飯だと。だから、教えてください!」

 「お、教えるも何も、ただ米を握れば良い話でしょう」

 「ですがやはり、母親にしかわからないテクニックとか、塩加減とか、ありますでしょう」

 一途な若い妻。実窓院は微笑ましく思った。

 「確かに、私はあの子の好きな握り方を知っていますよ。でもこの際、あなた自身の握り飯を食べさせてあげてはどうですか?」

 「私自身の?」

 「人に教わって作った物より、あなた自身の、あなただけの想いでやってみたらいかがですか。きっと、あの子も喜びますよ」

 亀寿の顔が花開いた。

 「そ、そうでしょうか」

 「ええ、この世に妻の手作り弁当に勝る食事はありませんよ」





 数日後

 再び小田原城 近郊

 大名の妻達が次々に到着した。総大将の豊臣秀吉も、自慢の側室である淀殿や茶の湯の師匠である千利休を呼び寄せている。

 島津久保は一時、戦争中だというのを忘れた。

 (まるで茶会だ。関白殿下は、生来の派手好きであられるな)

 種子島久時が走ってきた。

 「奥方様がご到着なさいましたぞ。忠長殿が先導しており、間も無くここに来ます」

 久保はじっと一点を見つめた。肌色の着物に身を包んだ亀寿が現れたからだ。背後には侍女も数人連れている。

 「「…………」」

 お互い、顔を赤くするだけで口を開かない。他の大名も、着飾った妻達も眼に入らない。種子島と忠長は、気を利かせてその場を去った。





 「よく来たな、亀寿」

 「はい」

 大きな木の下に腰を置き、二人だけで語り合う新婚夫婦。話したいことは一杯あったはずなのに、口から出てこない。側に居るだけで、満たされる。

 亀寿はおずおずと弁当箱を差し出した。

 「これ、陣中見舞いに持ってきました」

 箱を開けると、中にはたくさんの握り飯。多少形が崩れてはいるが、食べ応えはありそうだ。

 「握り飯……これは亀寿が?」

 「はい、一人で作ってみました」

 恥ずかしそうに下を向く亀寿。久保は嬉しさで胸が詰まった。

 (私のために……)

 一つを掴み、口にほお張る。

 「……どうですか?」

 亀寿は真剣に久保の顔を覗き込む。久保は感極まって、思わず亀寿を抱きしめてしまった。

 「ひ、久保様!?」

 「美味しいよ。とても美味しい」

 「本当ですか!嬉しい!」

 目元に嬉し涙の妻。感激に打ち震える夫。

 物陰でヤレヤレと顔を見合わせる島津忠長と種子島久時。

 誰もが幸せの一日だった。





 一ヵ月後の7月5日。北条家は豊臣秀吉に降伏。

 事実上、応仁の乱から約120年続いた戦国乱世は終結した。



 第七十三章 完


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