戦国島津伝
第七十六章 『雲の行くところ』
文禄元年(1592年)に発生した梅北一揆は鎮圧された。
だが、島津龍伯(義久)の気持ちは暗く沈んでいた。内城の屋敷から一歩も外に出ず、手にある書状を見つめる。
それは天下人、豊臣秀吉からの物だった。
祁答院
山田有信が島津歳久の屋敷に続く山道を馬で進む。
(やれやれ、こんな使命など、受けたくはなかった)
彼の心中を察しているのか、馬もどことなく歩みが遅い。
「ほれ、もちっと元気を出せ」
その言葉、そのまま自分に返ってくる気がした。
歳久の屋敷は祁答院の虎居城にある。屋敷内の部屋に通された有信は、出された茶を飲みながら辺りを見渡す。歳久の妻つづみの努力が実を結んでいるのか、細々したところ全てが磨き抜かれている。
茶を飲み、また飲み。やがてなくなった。
「ありゃ……」
お代わりを頼もうかと思ったとき、歳久が入ってきた。家臣の肩を借りてゆっくりと歩いてくるその姿に、有信は目元が熱くなった。
「待たせてすまぬな」
有信の真正面にあぐらをかいて座る。そのとき、一瞬歳久の顔が歪んだ。
「いや〜、歳久様は綺麗な家に住んでいますな。羨ましい。きっと奥方様の手並みがよろしいからでしょうな」
「有信よ、茶のお代わりは?」
「おお、すみません。よくお分かりに」
「分かるさ。長く待たせてしまったからな」
その答えに、有信は何も言えなくなった。
有信は世間話をしながら、いつ本題に入ろうか迷っていた。もしこの事を歳久に告げれば、彼の運命は……。
(やれやれ、困った。本当に困った)
茶碗を眺めながら黙っていると、歳久が切り出した。
「して今日は、どうなされた?」
ピクッと、有信の眉が動いた。
「大事な用件で来たのだろう?」
「実は……殿が……龍伯様が歳久様を城にお呼びです」
歳久は眼を閉じた。
「それは、今日中にか?」
「今日中にでございます」
「では、支度を整えねばな」
歳久が家臣を呼ぼうと横を向いたとき。有信は思わず言ってしまった。
「行かれれば、お命はありませんぞ」
「…………」
「梅北国兼が起した反乱に、歳久様配下の将兵が多数参加していたことが判明しました。しかもそれが、太閤殿下のお耳に……」
言葉が次々に出てくるが、そんな事を言ってどうする。有信は自分のしていることに混乱した。
「太閤殿下は、もし歳久様が朝鮮に渡っているのなら、お命は助けると。ですがもし、渡っていないのなら、首を差し出せと殿に」
有信は顔を伏せた。言わなくてもいいこと。だがいずれ知ってしまうこと。
「殿は、歳久様に」
「もうよいのだ」
さえぎられる言葉。有信は戸惑いよりも、悲しくなった。
「歳久様……」
有信はその場で顔を覆った。本来なら一国の名君にもなれた御仁。このような形で、最期を向かえるというのか。
歳久は妻のつづみに支えられながら、着替えを済ませた。終始、彼女は無表情だった。
「今日はもう帰らぬ」
「はい」
「一人で大丈夫か?」
「はい」
「食糧は足りているのか?」
「はい」
「……そうか」
歳久は家臣を呼び、肩を借りて歩き出した。
夫の去った部屋の中では、妻が一人、じっと座っていた。
歳久を乗せた駕籠(かご)は、ゆっくりと内城に向かった。
内城
新納忠元が早足で龍伯の部屋に入る。
「歳久様がご到着です」
目の前の置物を睨むように座っていた龍伯は、静に頷いた。
人払いをした広い部屋で、龍伯は久し振りに弟と対面した。歳久は家臣の肩を借りず、一人で龍伯の正面まで歩いた。歩くたびに顔をしかめていたが、兄の前まで来ると笑顔を見せて座った。逆に龍伯は、弟を睨みつけた。
「お久し振りです。大兄上」
「歳久よ、なぜ呼ばれたか、分かっているな」
「先日の梅北の一件ですね」
「そうだ、お前の部下が多数参加していた。お前はなぜ、それを止めなかった!」
龍伯は持っていた秀吉からの書状を歳久の顔にぶつけた。その書状には、秀吉の歳久に対する罪状が書かれていた。
1.九州戦争の折、秀吉の本陣まで来て降伏しなかった
2.薩摩から帰国する秀吉に矢を射掛けた
3.今まで一度も秀吉の招きに応じず、薩摩に留まり続けた
4.梅北の一揆に歳久配下の兵が多数加わっていた
などの罪状である。秀吉が怒るのも無理はなかった。
「歳久!お前がここまでたわけとは思わなかった!将兵をしっかりと監督するのが、領主たるものの務めだぞ!この不始末、どうしてくれる!」
龍伯の激昂にも、歳久は動じない。彼は兄の怒りが収まるのを待って、静かに口を開いた。
「…………梅北は信念に従って動きました。拙者は奴を尊敬はしても、非難はしません」
「正気か、貴様」
龍伯の目元が鋭さを増す。
「正しい、正しくないに関わらず、自分の信念に生き、死んだ人間を拙者は尊敬します。梅北に付き従った、拙者の部下達も」
「貴様……その結果どういう被害をこうむるか、考えなかったのか!」
怒りを露にする龍伯とは正反対に、歳久は優しく微笑むだけ。それが更に龍伯の気に障った。
「そんなに、わしが気に食わんか。秀吉に降伏した、わしが許せんか」
「……ずっと変わらない」
「なに!?」
「島津の家に生まれ、あなたの弟になった。それだけが、拙者の生涯の誇りです。その気持ちだけは、昔も今も、ずっと変わらない」
「!」
歳久は泣いていた。老いた両眼から溢れる涙を見て、龍伯は何も言えなくなった。
「秀吉から拙者を討つ命令が出ていることは知っています。あなたは何も迷うことはない。島津の君主として、拙者の自慢の兄として、この首を秀吉に差し出してください」
「…………なぜだ」
「この体、もはや十分に動けません。無駄に生き長らえているこの老骨。島津のためになるのなら、斬り捨ててください」
そう言って、歳久は頭を下げた。
龍伯は悟った。
ああ、そうか。この男は最初から、死に場所を探していたのだ、と。
梅北や部下の反乱など、どうでもよかったのだ。わしが秀吉に降伏したあの日、この男の人生は、終わっていたのだ。
薩摩の男として。武将として。この龍伯の弟として、わし自身に討たれるのが、こいつの最後の望みか!
悔しさが、にじみ出てきた。
「なぜだ、なぜそんなことを言う!わしに恨み言の一つでも、不平不満の一つでも、言ってみんか!」
立ち上がる龍伯。それでも、歳久は頭を下げ続ける。
「お前一人を斬り捨てたところで、お前が死んだところで、事態が収拾するなど……」
叫びながら、龍伯の眼にも涙が出てきた。この場で本当に正気を失っているのは、自分だ。誰よりも取り乱しているのは、自分だ。
「お前は、お前は!」
「拙者は天下に逆らった謀反人」
「歳久!!」
「…………帰ります」
そう言って、歳久は立ち上がった。無理に体を起したことで激痛が走ったが、彼は平然としている。
「くっ!」
手を伸ばす龍伯だが、歳久の背中に当る直前で止まった。
いま彼を引き止めて、何が出来る?何も出来はしない。結局歳久を待っているのは、死だけだ。
歳久は何も言わず、足を引きずりながら部屋を出て行った。
一人残された龍伯は、拳を床に叩き込んだ。
「お前まで……わしを……置いていくのか」
その嘆きは、誰にも聞えはしない。
内城を出た歳久は100名ほどの家臣達と共に祁答院へ向かった。
「急がなくてもよろしいのですか?」
一人の家臣が心配そうに聞いた。歳久の置かれている立場は、家臣全員が把握している。
「良いのだ。ゆっくり進もう」
歳久は内城を見ながら、寂しそうに呟いた。
やがて……。
「報告!龍伯様の軍勢が、この先で待ち構えている模様です!」
「なに!」
歳久の駕籠を警護していた家臣が叫んだ。まさか追っ手がかかるとは。
しかも祁答院まではまだまだ遠い。
「よし、舟に乗って錦江湾に出るぞ。北を目指すのだ」
老練な家臣の先導で、歳久一行は舟に乗って沖に出た。いち早く北に出れば、何とかなるかもしれない。
舟の上で、歳久は桜島を見た。夕暮れに染まる桜島は、一段と美しい。
「お前達、もう舟を降りろ」
「えっ!」
家臣達の顔が歳久に向く。
「今まで、よく仕えてくれた。お前達ならどこに仕官しても、立派にやっていけるだろう。だから拙者はここで降りる」
「何を言うのですか!」
叫んだのは、まだ若い家臣だった。
「我らの主は歳久様お一人。他には考えられません。たとえ死地に向かおうとも、決してお側を離れませんぞ!」
「おう、それがしも!」
「お供つかまつる!」
歳久は溜息を吐いた。
「わかった、もう何も言わん」
錦江湾 竜ヶ水付近
「……ここまでだな」
歳久の言葉に、家臣達が視線を海上に向ける。そこには小さな小舟が何艘か確認できた。
「追っ手ですね」
「歳久様、いかがしましょう?」
「上陸する。死に場所は、決まった」
一行は竜ヶ水付近に上陸した。歳久は家臣に両肩を支えられ、小高い丘に腰を下ろした。
「間も無く敵が上陸してきます」
「そうか」
「歳久様……ここでよろしいので?」
「ここなら、桜島がよく見える」
「……わかりました」
兵達は抜刀し、丘を下りていった。
竜ヶ水に上陸した歳久追撃部隊は、100名あまりの歳久配下の兵達に囲まれ、たちまち乱戦になった。
お互い、昨日まで味方同士だった者達。それがいまは、涙をこらえて襲い掛かってくる。なぜこうなったのか、何がいけなかったのか、もはや誰にもわからない。
もともと圧倒的に数で劣る歳久軍は、次々に倒れていった。
血みどろの家臣が一人、歳久の下へ向かう。
「歳久様、もはや……ここまで、お覚悟を……」
家臣はそう言うと、地面に倒れた。動かぬ屍となった家臣。
歳久はちらっと見ただけで、また桜島を眺めた。
「美しい……」
小さな噴煙を上げる桜島。夕日に染まる雲。
一瞬の間、その光景に見とれていた歳久の前に、甲冑を着た武士達が丘を上がってきた。
背の高い武士が声を張り上げる。
「島津歳久様でありますな!」
「いかにも」
「君命により、お命貰い受ける!」
「おう、拙者は逃げも隠れもせん。この体はもはや動けぬから、早く討ち取れ!」
だが、武士達は顔を見合わせるだけで誰一人来ない。
「どうした!この首を取り、見事手柄を立てるがよい!」
相手は主君の弟。しかも武士達は今回の処置に不満を持っていた。全員が、歳久に同情していた。
歳久は可笑しくなった。手足も動かぬこの老骨に、何をためらう必要があるのか。
歳久は武士達を見渡し、一人の男と眼が合った。男は一瞬慌てたが、歳久がじっと睨んでいるのを感じて、意を決した。
「原田甚次!参ります!」
ツカツカと歩み寄る原田。歳久の横まで来ると、刀を頭上で構えた。
桜島から流れる雲。あの雲は、どこに行くのだろう……。
そんな事を考えながら、歳久はゆっくりと眼を閉じた。
「ごめん!!」
原田の刀は、寸分違わず、歳久の首を飛ばした。
その光景を見届けた武士達は、ある者は刀を投げ捨て、ある者は草陰に顔を突っ込んで泣いた。
しばらくその場からは、武士達の泣き声が響き渡った。
島津歳久 死亡。享年55歳の生涯だった。
後年
島津龍伯は弟歳久の最期の地に菩提寺を立てた。これが心岳寺(現在の平松神社)であり、今も歳久と殉死した家臣達の墓を安置している。
歳久辞世の句
晴蓑めが 魂のありかを人問わば いざ白雲の 末も知られず
※晴蓑(歳久の号)
第七十六章 完
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