戦国島津伝




 第七十七章 『目覚める者』

 三人の騎馬武者が平野を駆ける。

 「父上、もうそろそろ城に帰還しませんか?」

 辺りは夕陽に染まり、自分達以外は誰もいない。しかもいまは戦時中であり、ここは未知の国。声を掛けた若い青年が心配するのも、無理はない。

 父上と呼ばれた男。老いた顔に百戦錬磨の威厳が漂う島津義弘が振り向いた。

 「まだ良いだろう。汗も出ていないぞ」

 「城の者が心配していると思いますが……」

 「城内は忠長がまとめている、心配ない。それに、この島に敵はいない」

 「それはそうですが……」

 島津義弘の軍勢がいるのは朝鮮の巨済島。現在韓国第二の島であるここは、朝鮮に侵略した日本軍左翼の一大後方拠点となっていた。

 梅北の一件で、「日本一の大遅参」と自らを非難するほど諸大名に遅れをとった島津軍は、前線に配置されることもなく、この巨済島で後方支援を行っているのだ。

 「義弘様、このままですと城に帰る頃には夜になってしまいますぞ」

 久保の隣から長寿院盛淳が助け舟を出す。それを聞いた義弘は、豪快に笑った後。

 「やれやれ、近頃の若い者は心配性でいかんな。わかった、わかった、城に帰ろう」

 と言い、馬首を返した。そのとき。

 「ん?久保」

 「はい?」

 「顔が赤いぞ、どうした?」

 「……別に」

 義弘の目線から逃れるように、久保は馬を飛ばして駆け去った。残された義弘、盛淳は互いに顔を見合わせたが、別に気にすることもないだろうと思い、久保の後を追った。





 大坂の島津家屋敷

 島津忠恒、亀寿姫、実窓院が暮らすこの屋敷で働く下女達の朝は早い。

 のはずなのに、いつまでも寝ている女が一人。

 元農民であり、忠恒に一目惚れして島津家に転がり込んだ少女・おたかである。

 「おたかさん、おたかさんもう朝ですよ」

 下女達が雑魚寝していた部屋に一人残されたおたかを見かね、同僚のおみちが布団を揺さぶる。

 「う〜ん。まだまだ」

 「まだまだじゃないでしょう。もう起きないと、香草さんに叱られますよ」

 香草とはこの屋敷の主実窓院に仕える直属の侍女。下女達を取り締まることを生き甲斐にしている熟年の女だ。

 「……く〜……」

 「あの〜」

 「おみち、退きなさい」

 ビクッと肩をすくめ、後ろを振り返ると、案の定香草が怖い顔をして立っていた。

 香草はおたかの布団を掴むと、勢いよく振り上げた。

 「んぎゃっ!」

 吹き飛び、背中から地面に激突するおたか。かなり痛そうだ。

 「っ〜〜たったったっ。なによもう!」

 「なによ、じゃない!さっさとおきな!!」

 「ちっ…………へ〜い」

 背中と頭を掻きながら渋々立ち上がる。おたかはその後、奉公人の心得を長々と説明され、半ば蹴っ飛ばされるように部屋から叩き出された。





 「あ〜あ、朝っぱらから説教食らっちゃったよ」

 「なかなか起きないおたかさんが悪いと思いますけど」

 おたかとおみちは二人で食器を洗っている。朝から機嫌が悪いおたかは、横のおみちにひたすら愚痴をこぼす。

 「あの年増〜、いつか仕返ししてやる」

 「そうですか」

 「だいたいもういい歳なんだからさっさとどっかに嫁に行きゃいいんだ!」

 「そうですか」

 「実窓院様もどうしてあんな女を……ぶつぶつ」

 「そうですか」

 もうおみちはおたかに対して「そうですか」しか言わない。下手にこいつの話に合わせると後で大変なことになる気がする。おみちの自己防衛本能がそう叫んでいた。

 「あ〜早く忠恒と夫婦になりてぇな〜」

 流石にその言葉は無視するわけにはいかない。おみちの表情が一瞬変わった。

 「……まだ諦めていなかったんですか」

 「ん?諦める?まっさか〜、だって忠恒と結婚すれば、俺の将来は約束されたようなものだもん」

 確かに高貴な身分の人が下々の者と結婚、または子供を産ませたという実例はたくさんある。おたかの話もあり得なくはない。

 ただ、当の本人である島津忠恒が彼女を受け入れるか……答えは限りなくゼロに近い。

 おみちもそれを察していた。彼女も幼少の頃から忠恒を知っている。忠恒に対して特別な感情を持っているのも事実。

 だからこそ分かる、忠恒は女を……他人を愛するような男ではない。

 それが女の勘なのか、ただ単に自分がそう思っているだけなのかはわからないが、おみちは、そう思っていた。

 「だって忠恒まだ独身だろ。もし俺が正室になって子供が出来たら……きゃあ、きゃあ!」

 勝手に想像を膨らますおたか。おみちは暗い表情のまま、黙々と食器を洗い続けた。





 島津忠恒はうなされていた。自室の部屋、布団の中で。

 額には汗が浮び、両拳は硬く握られている。

 その部屋に、ゆっくりと入る人影。忠恒の側に座ると、片手を顔に伸ばした。その直後。

 「!」

 忠恒の両眼が見開かれた。驚きと、困惑が入り混じった顔。しばらく視線をさまよわせ、自分の顔に片手を伸ばしていた人物と眼が合った。

 「……美影」

 「はい」

 透き通るような白い肌に、どこか不気味な眼を持つ美女美影。

 彼女は忠恒がどこからか連れてきて、自分の専属侍女として屋敷に置いている。

 母親の実窓院が忠恒に事情を詳しく聞こうとしたが、「お願いします」の一点張りで押し切られてしまった。出自、家族構成、忠恒との出会い。全てが謎の女だった。

 「なにをしにきた?」

 「もう、朝です」

 「……そうか、もう朝か」

 「夢を見ていたのですか?」

 「ああ、嫌な夢だった」

 「どんな?」

 「…………狼が、俺を追い掛ける。どこまで逃げても、追ってくる夢だ」

 「不思議な、夢ですね」

 美影は忠恒の部屋の障子を開け放ち、朝日を中に入れた。その光を、忠恒は不快に感じた。





 ガシャン!ガシャン!ガシャン!

 派手な音を繰り返して割れた三つの茶碗。おみちは目の前が真っ暗になった。

 「ああ、まただ……」

 身を屈めて破片を拾っていると、前から笑い声が聞えた。

 「ははははっ!また割ったのか、おみち。お前が朝から茶碗を割ってくれれば、ニワトリの鳴き声などいらないな。あっはははは!」

 腹を抱えて笑う忠恒。その後ろに立つ美影はジッとおみちを見ている。

 「すみません……」

 自己険悪。なぜ自分はこうも失敗ばかりするのか。

 だがおみちのこの天然ドジが、彼女を忠恒がかばう最大の理由。その事を知らないのは、幸か不幸か。

 「あちゃ〜、おみちまたやっちゃったの?」

 廊下の角から現れたおたかが慌てて一緒に破片を拾う。その手つきは実に慣れたものだ。

 「朝から腹が痛いわ。まったくお前は」

 「忠恒様。実窓院様がお呼びしています。早く行きましょう」

 「ああ、そうだったな」

 おみちとおたかの側を通り過ぎる忠恒。後ろからついていく美影は、破片の一つを拾おうとしたおみちの片手を踏みつけた。

 「あっ」

 「てめぇ、何しやがる!」

 怒りで立ち上がろうとするおたかを、おみちが袖を掴んで止める。

 「やめてください、おたかさん!」

 「どうした?」

 振り向く忠恒に、柔らかな笑みを返す美影。

 「いえ、別に何でも。ねぇ?」

 「は、はい」

 「くっ!」

 美影は意味ありげな視線を二人に投げかけ、最後にフッと笑った。

 「あんにゃろ〜」

 怒りが収まらないおたか。もともと地元では男勝りの女ガキ大将だったのだ。もし下女でなかったら取っ組み合いになっている。

 「いかに忠恒が連れて来た侍女だってな〜、何だ、あの態度は!」

 「…………」

 実際、美影は忠恒以外とはほとんど話さない。仲間の侍女にいろいろ質問されても答えない。

 確かに美しい女だが、評判は悪かった。

 彼女が来てから、おたかは忠恒の部屋に出入りすることが出来なくなったし、おみちも最近部屋に呼ばれなくなった。

 おたかの日頃のストレスは上がる一方だ。

 「あんな奴をどうして忠恒は侍女に取り立ててやったんだよ。あいつより俺の方が綺麗だぜ、絶対!」

 胸を張るおたかだが、おみちは美影に対して不気味なものを感じていた。

 (あの感じ……似ている気がする……忠恒様に)





 朝鮮 巨済島

 島津忠長、種子島久時、長寿院盛淳など、島津家の重臣が神妙な面持ちで部屋の様子を見守っている。

 殺風景な部屋の中では、島津久保が息も絶え絶えに横になっていた。

 側で医者らしい初老の男が脈をはかり、父親の義弘が久保の片手を握り締めている。

 突然のことだった。

 三日前、久保が倒れたのだ。原因は日本軍全体を悩ませていた病。

 気付いたときには、手遅れの状態だった。

 「父……上……」

 「久保!どうした、しっかりしろ!」

 息子の顔を覗き込み、眼に涙を溜める義弘の姿は、軍神と称えられる武将とはかけ離れた、子を心配する、一人の父親そのもの。

 「申し訳……ありません……」

 「なにをいう……お前は、俺の息子だ!この島津義弘の息子だ!病などに負けるな!」

 「あなたの……息子として……満足に働けず……申し訳ありません」

 もう義弘の言葉は聞えていないようだった。それでも、義弘は声をからして叫ぶ。

 「お前は俺の自慢の息子だ!自慢の……俺の息子よ……」

 「父上……」

 「なんだ、久保?」

 「……ふる……さと……に………………」

 久保の顔から苦痛が消えた。同時に、命の灯も。

 「久保?…………死んだか……」

 背後で見守っていた島津忠長が大声を上げた。床に顔を押し付け、号泣した。

 対照的に義弘は、ずっと久保の死に顔を見ていた。









 文禄2年(1593年)

 島津久保 病死   享年21歳









 久保死亡の報せは、大坂の島津家屋敷にも届いた。

 母親の実窓院は気丈にも涙を見せず、普段通りに振舞っていたが、やはり一人になると、声を押し殺して泣いた。

 妻の亀寿は昼夜泣き続け、妹の千鶴もそれを見て泣いた。

 屋敷全体が悲しみに染まるなか、一人だけ、夜空の月を眺める男がいた。

 「…………」

 今宵は曇り一つない満月。その月光を体に浴びて、彼は何を思うのか。

 その答えは、誰にもわからない。



 第七十七章 完


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