戦国島津伝
第八十章 『泗川の戦い』
薩摩の夜空。満月を眺めながら杯を傾ける一人の老将。その顔は穏やかで、寂しげだ。
彼こそは薩摩にその人ありとうたわれる島津義弘。今年で62歳の高齢でありながら、いまだ戦場での槍働きで他に遅れをとったことは無い。
(62か…………)
杯に満たした酒に映る自分の顔。そこには白髪が髭に混じり、顔にしわが寄った老人が寂しげに微笑している。その顔は、義弘に祖父を思い出させる。
義弘の祖父・島津忠良(日新斎)は75歳で死んだ。もう30年前の話になる。
(俺の番は、いつなのだろう)
お家の方針。豊臣家が行う政策への対応。それらを巡って自分と兄の義久が陰で対立し、家臣達も分裂している。
こんなジメジメした政治的紛争に巻き込まれるなら、いっそどこかの戦場で命を落としていたほうが良かったかもしれない。
(俺は長生きをしすぎたのかな……)
白髪が多く混じった髭をなでながら、老将は酒を一気にあおる。
老いた自分。兄との確執。それら全てを忘れるように。
太閤・豊臣秀吉が全国の大名に再び朝鮮出陣を命じたのはそれからすぐのことだった。石田三成などの官僚大名が必死になって和睦の交渉をしたのだが、秀吉に対して明の王が『日本国王』の金印を授けたことに秀吉が激怒し、結局は無駄に終わった。
文禄の役で大遅参を演じた島津義弘は今度こそ名誉挽回とばかりにその闘志をみなぎらせた。
(やはり豊臣家の為に力の限り戦い、島津の武勇と忠義を示すことが、我が家の生き残る道だ!)
一部の家臣からは国許に残って代理の軍勢のみを送っては、という意見もあったが、退けた。
「大将が戦場に行かずに誰が命を賭けて戦うというのか。くだらぬことを言うな!」
そんな勇ましい父の姿を、息子の島津忠恒は顎(あご)に手を当てながら見つめていた。
(老いてますます盛んな老将か…………)
今度の出陣に義弘は島津家全体から兵を募ったが、あまり集まらなかった。大隈に移った当主・島津義久が明確な意思表示をせず、静観を決め込んだからだ。国人や小豪族など、秀吉に不満を持つ者。度重なる出兵に逼迫(ひっぱく)していた者達が義久に泣きつき、義弘は半ば独力での出陣を余儀なくされた。
帖佐城(島津義弘の居城)
庭先で槍を振るう義弘と、それを見つめる息子・忠恒。
「どうだ、忠恒。お前もたまには一緒に汗を流さんか」
「結構です」
義弘は最近、暇さえあれば忠恒を呼ぶ。最愛の妻や娘が大坂に居て会えないため、寂しさを感じているのだ。
上半身を裸にして槍を振るうその姿は、とても60歳の老人とは思えない。
(化け物だな……)
忠恒のどこか冷たい視線にも気付かず、義弘は一心不乱に得物を振り回す。彼には兄義久の考えていることがわからなかった。
島津家の将来を考えれば、豊臣家に忠義を尽くすのが最良なのだ。それなのに、なぜ義久は天下のことに関わろうとしない。あれほど聡明だった兄が。
島津家当主の座も、領地も要らぬ。ただ、あの頃の兄に戻って欲しかった。九州戦争で、率先して自分を引っ張っていた兄に。
「父上、私も出来る限り兵を徴兵します。それで何とか頭数は揃うかと」
父親がずっと槍を振っているので、息子が口を開いた。これ以上父の余興に付き合う気はなかったし、汗の臭いからも解放されたかった。
「そうか……忠恒、亀寿姫は元気か?」
「…………」
なぜいきなり亀寿の話になるのか。忠恒は少し無愛想な表情を崩した。
「元気では、ないですか」
実際、手紙のやり取りもしていない。愛情も沸いてはいない。何とも寂しい夫婦だと忠恒も感じていた。
「大事にするのだぞ。それから、早くわしに孫の顔を見せてくれ」
(それまであなたが生きているかどうか…………)
「忠恒?」
「……そうですね」
一瞬。頭に亀寿の顔が浮んだが、すぐに消える。
(所詮、兄の残した私物だ)
数日後、島津軍は朝鮮に再び渡った。
島津義弘、島津忠恒、種子島久時、長寿院盛淳、島津忠長といった前回と同じ顔ぶれである。
「義弘様!今度こそ功名を立て、我らが島津の力を見せつけましょうぞ!」
舳先に立つ義弘に後ろから威勢良く声を出す忠長。彼はどんな状況になってもその元気は失わない。そこが島津家将兵の精神的主柱になっている。
忠長に振り向いた義弘は、笑顔で頷く。
「ああ、もちろんだ」
朝鮮半島に再び上陸した島津軍は、他の日本軍と共に各地を転戦。だが、多くの軍勢は戦っても利益がない異国との戦争に疲れ、次第に厭戦気分が高まっていた。
特にそれを裏付けたのが、慶長二年(1597年)12月に起こった蔚山倭城攻防戦である。日本軍は占領した蔚山市に日本式の城を建造しようとしたが、完成直前になって朝鮮・明連合軍が押し寄せてきた。加藤清正などの武将達はその城に入り、籠城した。やがて水陸から援軍が駆けつけ、連合軍を撃破したのだが、彼らは積極的に追撃せず、勝敗は痛み分けに終わった。
援軍が追撃をしなかったことに秀吉や奉行は怒ったが、実際戦場で共に戦っている武将達は誰もとがめなかった。
この合戦を契機に、日本軍は守勢に回り、当初の勢いはなくなった。
(大義がなければ人は戦えぬ。……もろい生き物だ)
朝鮮半島の泗川(しせん)という場所に、島津軍は居た。
駐屯地の幕舎の中で、壁にもたれながら微笑する島津忠恒。彼には全てが可笑しかった。一人の老人(豊臣秀吉)の為に働く日本全国の猛者ども。途中でやる気のなくなった将兵。そして何より、口を開けば島津の為と叫ぶ自分の父と、家臣達。
無意味、無駄、…………心の中に浮ぶ空虚な言葉。
こうすればいいとか、これが本当に正しい等とは言わない。ただ可笑しかった。
その時、島津軍に伝令が駆け込んできた。
忠恒が本陣に入ると、島津義弘を始め武将達が顔面を蒼白させていた。
「どうしたのです。父上」
「忠恒……。太閤が、太閤殿下が……お亡くなりになられた」
太閤・豊臣秀吉は慶長三年(1598年)9月18日に死んだ。石田三成などの奉行達は戦争の意義が失われたと判断し、日本軍に撤退命令を下した。しかし、明や朝鮮軍がこの動きを見逃すはずはなく、彼らは大軍を持って日本軍の各拠点を攻撃してきた。
9月末
島津義弘、忠恒親子が守る泗川城に「敵軍迫る」の報が届いた。
「敵の数は?」
「およそ数十万の大軍かと」
「数十万!」
長寿院盛淳の報告に、忠長が驚愕の声を上げる。現在、城を守る島津軍は七千人しかいないのだ。
「急いで撤退を……」
言いかけて、盛淳は口を閉じた。この泗川城は日本軍の運航を守る重要拠点。ここを抜かれると、日本軍全体が全滅する恐れもある。
義弘はしばらく瞑想した後、言った。
「迎え撃つ。それしか手はない」
「ですがあまりに兵力が」
「我々が敗北すれば、日本軍も多大な被害を受ける。しかもここは異国の土地。退くことも、降伏もできん。ならば、することは一つ」
総大将の静かな、それでいて力強い言葉に、武将達も闘志をその眼に宿らせる。
そんな彼らの様子に、忠恒はただ驚く。
(人はどこまで馬鹿になれるのだ……)
なんて一人冷めていても、事態は深刻である。
泗川城は二つ存在する。
文禄のときに築かれた泗川古城と、新たに築城が開始され、いまだ未完成の泗川新城だ。
古城は新城の前面に配置されており、ここは敵との激戦が予想される。
義弘はもっとも信頼する武将・島津忠長を古城の司令官に任命し、自分と忠恒は後方の新城に籠もった。
「一応、立花家などから援軍の要請をしては?」
種子島久時の言葉に義弘が返すよりも早く、忠恒が口を開いた。
「万人心を異(こと)にすれば則(すなわ)ち一人の用無し。ということわざを知っているか?援軍などを当てにすれば、将兵の心に油断が生まれる。此度の一大決戦は、我々島津家だけで乗り切るべきだ」
久時は顔をしかめた。確かに今回は、本当に将兵一人一人が命を捨てねば勝てない。だがあまりにも兵力差が多すぎるのも事実。久時は義弘を見た。だが義弘は、どこか嬉しそうだ。
「…………ふふ、忠恒。お前は戦を博打と勘違いしてはいないか?」
「家臣の命、己の命を賭けた大博打。この忠恒はそう考えています」
「大博打か。なるほど、何時の間にかお前はそんなことが言える男になったのだな。……よかろう、その博打に乗ってやる!」
こうして、島津軍は手勢の七千人だけで敵数十万と正面から戦うことになった。
10月
明・朝鮮連合軍が泗川古城に殺到した。その数は平野を埋め尽くし、城は瞬く間に取り囲まれた。
「忠長様。敵が押し寄せてきます!」
城壁に群がる敵兵。古城の司令官を務める島津忠長は自ら鉄砲を撃ち、敵の一人を撃ち殺した。
「怯むな!鉄砲を撃って、撃って、撃ちまくれ!!」
忠長が五百人の兵と頑張っているうちに、義弘は長寿院盛淳を呼んだ。
「敵軍に潜入し、弾薬庫の位置を掴め。そしてそのまま待機」
「御意!」
もともと長寿院は薩摩の間者(スパイ)。敵陣への侵入はお手の物だ。
泗川古城を巡る戦いは終日続いたが、やはり多勢に無勢。忠長率いる守備隊は少なからぬ被害を出して泗川新城に撤退。連合軍も数千人の被害を出して一時進撃をやめた。
上から下まで返り血で濡れた忠長は義弘の前に来ると。
「お役目、果たして参りました」
それだけ言って倒れ、そのまま寝た。
古城が陥落した直後、盛敦は首尾よく敵の弾薬庫を発見していた。
(あれか……)
彼の手元には、爆弾。
二日後
連合軍は体勢を整えると、すぐに泗川新城に攻め寄せてきた。
義弘は全軍の陣頭に立って采配を振るった。
「出来るだけ引き寄せよ!鉄砲の弾薬と、弓の補充にも気を配れ!」
久時は自らと同じ種子島出身の鉄砲隊を指揮し、一発の外れもない見事な一斉射撃を披露した。
ダンッ、ダンッ、ダンッ!
それでも、敵は雲の如く。このままでは敗北は必至。
義弘は忠恒の陣に伝令を送った。
「忠恒様。総大将より伝令です。合図を出せと」
忠恒は椅子から腰を上げると、持っていた軍配を配下に向けた。
「法螺貝!」
「はっ!」
配下の兵は法螺貝を二度、三度と吹いた。
その途端。戦場に爆音が轟いた。
明・朝鮮連合軍の弾薬庫が突如爆発。連合軍に動揺が走った。
義弘は采配を捨て、愛用の槍を構える。
「今こそ好機!全軍突撃だ!!」
全ての城門は開けられ、島津軍七千人は敵軍に突撃した。
精鋭の鉄砲隊である種子島久時の部隊を先頭に、島津軍は敵軍を駆け回った。
「進め!敵に体勢を整える隙を与えるな!!」
義弘、久時の突撃に呼応して、島津忠恒も打って出た。その時、忠恒は忠長に「万が一の事がある。少数の兵で残ってくれ」と言って出て行った。
まさに激戦となった。
少数の島津軍と、圧倒的兵力がある連合軍。島津義弘は何度も取り囲まれそうになりながらも、馬上から槍を振り回して敵を蹴散らした。義弘の槍に触れた者は次々に吹き飛び、敵兵の武器は砕け散った。
種子島久時は鉄砲の替えを何丁も馬や側近に持たせて代わる代わる撃ち、近寄ってきた敵兵には刀で応戦した。
島津忠恒も生涯で始めての激戦ではあったが、馬を巧みに操って敵の攻撃を避け、刀で反撃した。
島津兵も全員が命を捨てて敵と肉薄し、次第にその勢いに連合軍が圧倒され始めた。
だが泗川城に残る島津忠長のもとに「敵の別働隊迫る」の報告が届いた。
「城に残っている我が兵の数は?」
「およそ百人。残りは負傷兵です」
「百人……」
仰天する兵達をよそに、忠長にはある光景が思い出されていた。
かつて九州戦争の折、忠長率いる島津軍は圧倒的兵力で筑前国の岩屋城を攻めた。だが、城主・高橋紹運とその兵の奮闘によって多大な被害と時間を浪費してしまった。
あの時といま、どこか似てはいないか…………。
忠長は部下達を見た。全員疲れてはいるが、その眼は死んではいない。
(…………紹運殿に出来たのなら、この忠長とて)
忠長は決意した。
(玉砕してやる!!)
島津忠恒は敵兵の血で濡れた刀を自らの袖で拭きながら、冷静に状況を分析していた。忠恒は自分でも驚くほど心は平静を保っていた。いま自分が立っている戦場が、前代未聞の激戦の只中であるにもかかわらず。
(窮鼠(きゅうそ)猫を噛むか…………この戦は貰ったな)
「長寿院盛淳様の兵から緊急の報告!敵の別働隊が泗川城の裏門に向かっていると!」
忠恒は馬首を返し、部隊をまとめて叫んだ。
「ここは父上の部隊に任せろ!我らは敵の別働隊を迎撃する!」
「オオゥッ!」
泗川城の裏門は攻める敵と守る島津忠長の戦いで血の海と化した。
刀、槍、弓、鉄砲。忠長及び島津兵は全員が得意とする武器。あるいは付近に落ちていた物を次々に使って敵を防いだ。
「各人は命令を待つ必要はない!眼に映った敵は全力を持って排除しろ!!戦国を生き抜いた島津兵の強さ、見せてやれ!!」
島津兵は疲れず、士気も衰えず、戦い続けた。
やがて島津忠恒が援軍として到着。敵別働隊の側面を急襲した。
島津義弘、忠恒、忠長、種子島久時、長寿院盛淳。島津の将兵達。
全員がこの瞬間、鬼となり、兵力の差という言葉はその意味を失った。
夕刻
敵軍は撤退を開始。泗川城の攻防は島津軍の勝利に終わった。
明・朝鮮連合軍の戦死者は島津側の報告では三万人。明側の報告では八万人に上ったという。
この戦いで島津義弘の名は明にも響き渡り、『鬼石蔓子(おにしまづ)』の異名で恐れられた。
第八十章 完
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