戦国島津伝




 第八十四章 『三成の挙兵』

 時代は動き出す。

 豊臣秀吉の死後、関東の徳川家康は『大名間の婚姻』・『他家に対する無断加増』などの独裁政治を推し進め、加賀の前田利家と対立した。

 だが、慶長4年(1599)の3月に利家は死去。利家と共に家康と対立していた五奉行の石田三成は加藤清正ら7将軍の襲撃を受け、奉行職を辞任。居城の佐和山城に蟄居した。

 天下に敵のいなくなった家康は、厄介な大勢力である前田家を潰そうと画策。しかし、前田家当主の前田利長は母親を人質に出すことで帰順。前田家討伐は回避された。





 慶長5年(1600)

 薩摩の島津家内乱である『庄内の乱』が終息したこの頃、今度は会津の上杉景勝に軍備増強で不穏な動きありという風潮が流れた。

 家康は景勝に大坂に来るよう命じたが、上杉家の重臣・直江兼続が有名な『直江状』なる挑戦状を家康に突きつけ、家康の上杉家討伐は決定した。





 大坂の宇喜多家屋敷

 「家康の独裁は眼に余る!」

 宇喜多家当主の青年大名・宇喜多秀家が鼻息を荒げる。

 「前田殿、石田殿の次は上杉殿……己に都合の悪い者達を次から次に蹴落とし、挙句には太閤殿下のお言葉を忘れての独断政治!誰が見ても家康が天下を狙っておるは明白ではないか!」

 そんな若き当主の愚痴を黙って聞いているのは、軍師の明石全登(あかし てるずみ)だ。

 「聞いているのか全登」

 「はい、聞いております」

 「お前はどう思う?」

 秀家は全登を重く用いた。一つは二人ともキリシタンを信仰し、俗に『宇喜多騒動』と呼ばれるお家騒動でも最後まで秀家に従ったのがこの全登だったからだ。

 「確かに家康の行動は怪しい。ですがそれも豊臣家の威光があってのこと。所詮家康は、秀頼様がいる限り一介の家臣に過ぎません」

 「だが、家康がこの先豊臣家に矛先を向けないとは限らんではないか!」

 「まあまあ……困りましたな、殿は声が大きい。誰かに聞かれたらどうします」

 「構うものか!福島も加藤も黒田も、甘い蜜を吸う売国奴だ!なぜ家康ではなく豊臣家を盛り立てん」

 秀家は豊臣秀吉の養子であり、秀吉の「秀」の字を貰って元服した経緯がある。その為、豊臣家に対する忠誠心は人一倍強かった。

 「全登よ、家康は上杉殿を倒せるか?」

 「恐らくいかに精強な上杉家でも……勝てますまい」

 「五大老の前田殿が死に、五奉行の石田殿が失脚し、更に同じ五大老の上杉殿が倒れれば……」

 「残る五大老は中国の毛利殿と家康、そして殿だけですな」

 宇喜多秀家は五大老の一人である。しかしまだ28歳の若さの為、いかんせん家康のような威厳も武名もない。

 「中国の毛利殿は頼りない。家康が上杉殿を倒せば、もう誰も家康を止められない」

 「秀頼様がいるではないですか」

 「秀頼様は7歳の幼子だ。家康がその気になれば、今の豊臣家など……」





 6月16日に大坂を出陣した徳川軍は、25日に駿府、27日に小田原と、進軍速度は極めて遅かった。この間に上杉軍は巨大な防塁を国境に配備して徳川軍を待ち、他の諸大名は徳川軍に合流すべく国許を次々に出発した。

 薩摩の島津義弘も徳川軍に同行することになるだろうと思っていたが、出発前の家康から言われたのは意外な言葉だった。

 「義弘殿には伏見城の留守を頼みたい」

 「伏見の留守?」

 「うむ、義弘殿が伏見に居てくれれば、わしも安心じゃ」

 「……承知しました」

 義弘に拒否権はない。庄内の乱を仲裁してくれた恩もあり、何より現在の島津家は打ち続く戦乱に疲労している。この上軍勢を引き連れて会津まで行くのは正直厳しい。家康の申し入れは有難かった。

 (とはいえ、最近は騒々しい。国許から軍を送ってもらうか……)

 歴戦の猛者である義弘には、天下に再び争乱が起こる。そんな気がしていた。





 徳川軍が遅々として会津に向かうなか、遂に宇喜多秀家が動いた。

 7月1日に盛大な出陣式を豊国神社で執り行ったのだ。

 「宇喜多秀家ここにあり!!」

 轟く歓声。軍師の明石は再三に渡り秀家を制したが、もはやこの若い当主は家康を倒すことしか考えられなかった。

 もし、家康が本当に天下を狙っているのなら、誰かに大規模なクーデターを起してもらう必要がある。それによって自分に反感を抱くものを根絶やしにし、ゆっくりと力のなくなった豊臣家を料理すればいいのだ。

 家康がこのような考えを持っていたとすれば、秀家はまんまと家康の策略に引っ掛かってしまったことになる。

 家康にとっても、そして秀家にとってもまさに全てを賭けた大博打である。





 出陣式を済ましたとはいえ、秀家には味方がいない。というより次に取るべき策がない。

 そこで軍師の明石全登は、かつて家康と対立して失脚した石田三成に眼をつけた。





 近江 佐和山城

 山頂に五層(もしくは三層)の天守閣がそびえたつ立派な山城。ここが三成の居城であり、現在の隠居先である。

 「宇喜多家の明石殿がわざわざお越しとは、何用ですかな?」

 城に到着した明石全登を、三成は快く出迎えた。

 「実は我ら、五大老の徳川家康を討ち果たす覚悟を致しました」

 「ほう」

 明石はありのまま、思っていることを口にした。

 「この大事に、三成殿もご参加いただきたい」

 「わしが宇喜田殿に……」

 「家康をこのまま生かしておけば、豊臣家が徳川家の傀儡(かいらい)に成り果てるは必定。そう思い、我が主は挙兵をご決意いたしました。我らの覚悟、三成殿にならお分かりいただけるものかと」

 「……そうか、宇喜多殿は忠臣だな」

 「三成殿、どうか我らを導いてくだされ!」

 「明石殿、わしも家康に良い感情は持っておらん。ただ、今は余りに時間が足りぬ。それをどう考える」

 「恥ずかしながら我が主の宇喜多秀家は、既に出陣式を済ませ、軍勢を大坂に集結させつつあります。もう後戻りはできぬのです」

 三成は軽く溜息を吐いた。

 「……若いな」

 「はい、我が主は真に若輩者。父君(宇喜多直家)のような聡明さはありません。ですが、その志はこの世の誰よりも美しゅうございます!」

 「志か……わしの好きな言葉だ」

 「三成殿!」

 「奉行から失脚し、いまやこの城で静かに余生を過ごすわしを、貴殿らは再び世に出すというのか」

 明石は何も言わず、三成を見つめた。その両の拳は固く握られ、わずかに震えていた。

 「……志か……」





 北陸の越前国敦賀城は大谷吉継という5万7千石の大名が治めていた。彼はハンセン病をわずらい、面相は崩れ、足も不自由、最近は両目の視力も失っていた。

 吉継は徳川家康の上杉家討伐軍に合流する前に、三成の佐和山城に向かっていた。目的は三成の嫡男・石田重家を自分に従軍させるためである。

 三成と家康は仲が悪い。重家を連れて行くことで二人の仲直りをさせようとしたのだ。





 7月11日 深夜

 佐和山城の一室。

 「よく来てくれたな、吉継」

 「いやはや、すっかり夜になってしまった。すまぬ」

 「道中はどうであった」

 「ふふ、実は来る途中に喉が渇いて水を飲んでいたらな、山から野犬が出てきて、わしの面を見て慌てて逃げていきおったよ」

 「そうか……」

 「かっはっはっ、犬も逃げるほどわしの面は酷いものらしい。誰も何も言わぬからわからんよ」

 「お前は犬に嫌われ、わしは人に嫌われる。世の中とはわずらわしいものよ」

 「まったくだ。嫌われ者同士、今夜は飲もう」

 「うむ」





 酒が進み、お互いの顔が上気してくる頃には、辺りはシンと静まりかえっていた。月明りが城を照らし、虫の僅かな鳴き声しか聞えない。

 「今日は良く飲むな、三成」

 「…………」

 「考えてみれば、お前とこうして酒を酌み交わすのは久しぶりだな」

 「…………」

 「お前、何を考えている」

 三成は持っていた酒を床に置くと、静かに口を開いた。

 「わしは、挙兵する」

 「…………」

 「五大老の宇喜多秀家殿が既に出陣式を済ませ、わしに協力を求めてきた。わしはこれを家康打倒の最後の機会と思っている」

 「三成、酔っているのか?」

 「酔ってはいない…………いや、酔っておるのかもしれん。だがこの酔いは、もうさめることはない」

 三成は吉継を見ず、部屋から覗く月を眺めた。その顔は、悲壮の決意を表していた。

 沈黙が支配する部屋の中で、不意に吉継が従者を呼んだ。

 「五助!帰るぞ!」

 大谷吉継の従者・湯浅五助は、常に主人の傍近くに控えている。今も隣の部屋で主人と三成の会話が終わるのを待っていたのだ。

 障子越しに五助の影が浮ぶ。

 「殿、準備できました」

 「三成、酒の席でのこと、さっきの話はなかったことにしてやる。それから息子の重家殿には、明日迎えをやる」

 入ってきた五助に背負われ、吉継はそう冷たく言い放って部屋を出た。

 後に残された三成は、ただ黙って月を眺めていた。





 翌日

 三成の家臣・舞兵庫が慌てて駆けつけてきた。

 「殿、大谷吉継様が軍勢を率いてこの城に向かっております!」

 「開門せよ。手向かいは無用だ」

 「しかし!」

 「吉継に討たれるなら本望よ」

 三成は覚悟していた。もし大谷が徳川の手先として自分を討つのなら、それでもいい。自分は何もせず、笑って友の刃に倒れるだけだ。

 側近を連れて迎え出た三成を、吉継は四人の家臣達に持たせた輿の上で見た。というより察知した。

 「三成か?」

 「いかにも」

 「お前は馬鹿だ、三成。酒の席とはいえあんなことを言えば、拙者がお主を討たざるをえないとわからなかったのか」

 「そうだな、わしは馬鹿だ。このようなことになっても、まだ昨日の酔いはさめてはおらんらしい」

 「その酔いは、死なねばさめんか?」

 「恐らくな」

 「そうか……なら仕方ない。拙者も死んでやる」

 「!?」

 「お主の酔狂に付き合ってやる。どの道この体では永く生きられん。お主を道連れにしてやるわ!かっはっはっはっ!」

 「吉継……」

 三成は思わず目元を押さえた。もちろん吉継には見えない。だが、吉継はまるで笑い事であるかのように、豪快に笑い続けた。





 宇喜多秀家、石田三成、大谷吉継の途方もない戦いが始まった。





 時は慶長5年(1600)、7月12日のことであった。



 第八十四章 完


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