戦国島津伝




 第八十六章 『決戦前夜』

 薩摩では毎日のように会議が行われていた。

 島津龍伯の富隈城に居並ぶ重臣や一族。彼らにとって最大の難問は、義弘に兵を送るか否かである。

 長寿院盛淳や島津豊久などは頑強に兵を送ることを主張した。

 「いまこそお家の危急存亡のとき、急ぎ義弘様に兵を送るが上策」

 対して義弘の息子・島津忠恒や新納忠元がこれに反対。

 「現在、京や大坂で天下の大事が起きていることは、父上の手紙からも明白である。だが、中央の情勢が不安定なまま兵をあげるのは、危険極まりない。誰が敵で、誰が味方かも、我々はよく分かっていないのだ」

 このように、島津家全体が一本にまとまっていない状態で、義弘の援軍要請は何度も無視されてきた。

 当主の龍伯は、上座で眼を閉じ、家臣達の弁論に耳を傾ける。彼の心もまた、迷っていた。





 7月17日に結成された西軍はまず、家康の家臣・鳥居元忠が守る伏見城、細川幽斎が守る田辺城に軍勢を派遣した。

 「まずは周辺勢力を一掃し、後顧の憂いを絶ってから家康を仕留める」

 石田三成号令の下、次々に西軍諸将が動き出した。





 島津義弘は手持ちの兵力1千2百を率い、長束正家の軍勢と共に伏見城を取り囲んだ。

 西軍数万に対し、伏見城守備隊は1千弱。勝敗は見えた戦だったが……。

 19日から始まった城攻めは、数日が過ぎても落とせなかった。

 攻撃軍総大将の宇喜多秀家は歯軋りする。

 「なぜたかだか千人規模の城を落とせぬ!諸将は兵の損失を気にしすぎだぞ!」

 怒る秀家を尻目に、義弘は心中で笑う。

 (名もいらぬ、命もいらぬ輩(やから)は始末に困るものよ)

 次の日

 小西行長、長宗我部盛親、鍋島勝茂などの軍勢が城に攻め寄せる。

 「鉄砲隊を前に出せ!敵に反撃の隙を与えるなよ!」

 終日攻め寄せたが、やはり今日も城は落ちない。辺りが夕暮れに染まり、兵達が陣に戻る中、長束正家が義弘の下を訪れた。

 「義弘殿、今日も城は落ちなかった……」

 「ほう、長束殿のような勇将でもてこずりますか」

 「お世辞はやめてくれ。小生は戦の指揮を取るような男ではない。だが武功は欲しい。何とか城を攻め取る策はないか?」

 「この義弘は長束殿の指揮下にある。策を求められれば、お答えしよう」

 「おお!では策があるのだな!この正家があの城を落とせるのだな!」

 義弘は正家に甲賀衆の妻子を捕らえるように進言した。伏見城を守る兵の中には、甲賀出身の者が多くいたのだ。その甲賀の地を治めていたのが長束正家である。

 「別に本当に妻子を捕らえる必要はない。ただこちらに寝返らなければ、家族を殺すと脅せばよい」

 「なるほど、内部から崩壊すれば、伏見城も持つまい」





 8月1日

 義弘の作戦は功をなし、伏見城を守っていた甲賀衆の一部が城に火を放って勝敗は決した。城将の鳥居元忠は全身に返り血を浴びながら天守まで退き、なだれ込む敵兵の音を聞きながら天を仰いだ。

 (殿……天下を取られよ……)

 幼少より家康に仕えた鳥居元忠は遂に城を枕に討ち死にした。

 享年62歳。その忠節は『三河武士の鑑』と称された。

 焼け落ちる城を眺めながら、義弘はひそかに手を合わせた。

 (元忠殿、いい死に様よ)





 鳥居元忠を討ち取った西軍は、更に伊勢や美濃方面に進撃。義弘は三成の居る佐和山城に戻った。

 義弘はこの時、少ない自分の軍勢を嘆いて、ある有名な書状を国許に送った。

 『手前無人にて、何たる儀も心中に任せず、面目を失い果て候』

 『心有るべき人は、分限に寄らず自由に罷り上るべき事、この時に候』





 この書状を受け取った薩摩の重臣達は目頭を熱くした。

 「義弘様はそこまでお困りなのか。たったお一人で、並み居る敵と戦っておられるのか」

 そんな中で、島津忠恒だけは冷ややかだった。

 (西軍の大将は毛利輝元と石田三成……家康とは並ぶべくもない。そんな男達に加勢するとは、父上も老いたな?)

 心ではそう思っていても、忠恒は皆の前では眼に手を当ててみせる。

 「私も出来ることなら父上の加勢に行きたい。だが、我ら全体が西軍に与することは、一歩間違えればお家全体を危うくする。加勢の軍勢は……送れぬ」

 途中で涙声も混ぜた忠恒の言葉に、その場の全員が下を向く。龍伯すらも静かに頷いた。





 長寿院盛淳はその日の夜、ひそかに兵を率いて国許を出た。その数70人。他にも数十人の家臣達が領地を捨てて上方に向かった。

 彼らの心中……もはや推し量れるものではなかった。





 石田三成は着々と戦略を練っていた。

 現在西軍はバラバラに分散し、丹後の田辺城、加賀の前田家と戦っていた。

 (家康は上杉家が小山辺りで釘付けにしているはず。その間にできるだけ敵を減らさねば)

 西軍の総大将は大坂の毛利輝元であったが、彼は一族の吉川広家、毛利秀元らを前線に派遣しただけで、自らは大坂城に留まり続けていた。

 (輝元殿も腰が重い……西国の太守がそんなことでどうする……)

 結局、輝元は大坂城から打って出ることはなかった。更に三成の誤算は、最大の宿敵徳川家康が、既に江戸に舞い戻っていたことだ。三成挙兵を聞いて背を向けた家康に、上杉家当主・上杉景勝は追撃をしなかった。陣地に息子の徳川秀忠が残っていたとはいえ、景勝は家康を討つ好機を逃してしまっていた。

 三成はその事実をまだ知らない。





 8月10日

 石田三成は大垣城に移った。この城は美濃国(現在の岐阜県南部)の西の端に位置する平城。西軍の重要拠点の一つである。

 「三成殿、この城に本陣を構えた訳を知りたいのだが……」

 小西行長が胸元の十字架(ロザリオ)を触りながら質問する。無意識に十字架を弄るのは、彼の癖なのだ。

 「我ら西軍が家康に勝つ為には、常に先手を取って攻めるしかない。この大垣城、織田秀信殿の岐阜城を防衛線として、尾張の清洲城を落とし、一挙に三河に攻め込むが上策」

 「なるほど、守りを固めながら確実に敵地に攻め入る。家康は防戦一方にならざるを得ない」

 「そうだ。いま、天運は我らにある。太閤殿下もあの世で応援してくださるだろう」

 「……一つ言わせて貰うが、敵は外だけとは限りませぬぞ」

 「ふむ、行長殿は裏切りを心配しておるのか。だが無用な心配だ。家康の軍勢を一度でも負かせば、天下の諸侯は大挙して我らに味方するだろう。ようは勝てばよいのだ。勝ちさえすれば……天下は再び豊臣家の下に一つになる」

 「三成殿は、もし家康を討ったら、天下を秀頼様に返すのか?」

 「…………当然だ」

 「ならば、もう拙者から言うことはない。家康だろうと何だろうと、敵は全て倒すのみだ」





 義弘が三成に続いて大垣城に到着した頃、薩摩から援軍到来の報が届いた。

 「援軍!?……そうか、来たか」

 半ば諦めかけていたことだけに、義弘は心の底から喜んだ。

 援軍40数人を率いてきたのは、甥の島津豊久であった。

 「豊久……」

 「伯父上、戦場はどこですか?」

 肩で息をしながら微笑する甥に、義弘は吹き出した。

 「はっはっはっはっ!お前の父は相当な男だったが、お前も大した男よ!」

 「これからは、この豊久にお任せあれ!」

 僅かな援軍とはいえ、義弘は到着した兵全員に慰労の言葉をかけたという。





 全ての予定が狂ったのは、8月23日だった。

 その報告に、石田三成ら首脳陣は驚愕した。

 「岐阜城が落ちた!」

 この時、三成、行長、義弘は美濃の墨俣という地点に布陣していたが、三成は急いで大垣城に引き返す準備を始めた。

 「岐阜城が落ちたとすればこれは一大事。諸将は急ぎ、大垣城に帰還せよ」

 「お待ちあれ!」

 義弘が野太い声を上げる。

 「墨俣の前線には我が島津の部隊がおります。彼らが本陣に戻るまで、お待ちくだされ」

 「気持ちはわかるが義弘殿、東軍は貴殿の部隊の居るところまでは寄せては来ぬ。我らは一足先に行かせて貰うぞ」

 三成は去り。義弘だけが残された。

 (兵が少ないわしらは、所詮無視される存在か……)

 伏見城攻略も、義弘の活躍は評価されなかった。確かに豊久の部隊がいる地点には、東軍は来ない。だがせめて、帰ってくるまで待ってくれてもよいではないか。

 いままで兄以外の人に使われたことのない義弘にとって、三成のとった行動は怒りよりも悲しみを呼んだ。

 (もう少し、武将達の気持ちになって考えてもらえぬものか……)

 義弘の心に、暗い影が浮んだ。





 岐阜城を守っていた織田秀信は、22日に城から打って出て東軍に完敗。翌日の23日に降伏開城した。これによって、三成の戦略は根底から崩れることになる。

 「岐阜城がまさか一日で落ちるとは……加賀攻略中の大谷や伊勢の毛利勢を呼び寄せねば」

 「やはり大坂城の輝元殿は動きませぬか」

 「もはや輝元殿、秀頼様のご出馬は無理であろう。この上は主力をこの大垣城に集め、攻め寄せる東軍を迎え撃つしかない」





 岐阜城陥落の報告を聞いて、重い腰を上げた人物がいた。

 江戸城の徳川家康である。直轄軍3万余りを率いて出陣した家康は、美濃赤坂(東軍先鋒の本陣)を目指した。





 9月

 長寿院盛淳が70人ほどを引き連れて義弘に合流した。

 「盛淳か……お前も酔狂な男よ」

 「何も言いますな。この盛淳、天下の戦を見に来ただけのこと」

 少数ながら次々に国許から到着した島津軍は、総勢1千5百。

 義弘は涙腺が緩むのを禁じえず、思わず兵達の手を取って男泣きした。

 「わしはお前達のおかげで戦える。お前達がいる限り、わしは不死身だ!」





 大垣城

 「東軍の先鋒はおよそ3万。赤坂に本陣を置いているらしい」

 「赤坂はこの城のすぐ北。西に向かえば大坂、南に向かえばこの城を攻撃できる」

 「越後の上杉殿は敵軍を足止めしてはくれなかったか……不甲斐無い」

 「済んだことを言っても仕方がない。いまはそれがし達のこれから取るべき道を決めるのが肝要」

 連日続く軍議だが、なかなか全員の意見が一致しない。ここに来て、西軍首脳の連携が乱れ始めていた。





 西軍にとって悪い事件はまだ続いた。

 近江の京極高次が西軍を離反し、大津城に立て籠もったのだ。この京極討伐に、西軍は立花宗茂、毛利元康など1万5千の軍勢を派遣。大幅に兵力を割かれることになった。

 誤算は東軍にもあった。

 3万8千の主力を率いた家康の息子・徳川秀忠は、8月24日に下野宇都宮を出陣。9月2日には信濃小諸城に入った。

 そこで信濃の上田城を守る西軍の真田昌幸、幸村親子に開城を迫ったのだが、二人の返事は「否」であった。怒った秀忠は9月6日に攻撃を開始したが、僅かな兵力の真田軍に翻弄され、敗退。9月9日にようやく諦め、兵を赤坂に進めたが、完全に時間遅れであった。

 後にこの失態が、家康の肝を冷やすことになる。





 石田三成は東軍の大坂西進を防ぐため、その通り道に位置する松尾山、南宮山に兵を配置することにした。

 家臣の舞兵庫が部屋に入る。

 「報告。松尾山には小早川秀秋殿、南宮山には吉川広家殿、毛利秀元殿が布陣したようです」

 「なに!?松尾山に小早川が入った!?」

 「小早川殿は、松尾山に既に布陣していた我が方の武将を追い出し、無理矢理布陣したようです」

 「……小早川か」

 小早川秀秋。豊臣秀吉の正室・高台院の甥に当たる人物。今回1万5千の大軍で西軍に参加していたが、当初からこの18歳の若者に三成は心を許してはいなかった。

 何とか秀頼成人までの間の関白職と、2カ国の加増を約束して繋ぎ止めてはいたが、どうも怪しい。

 三成は嫌な予感を感じていた。





 9月14日

 家康が赤坂に到着したという報告が入った。

 「遂に来たか」

 眼と鼻の先に家康がいる。そう思うと、三成は拳を握り締めた。その背後に、家臣の島左近が静かに口を開く。

 「殿、お願いがございます」

 「珍しいな左近、お前が進言するなど」

 「それがしに兵をお預けください。家康軍を奇襲いたします」

 「奇襲?」

 「家康着陣の報に、兵達は怯えております。士気鼓舞の為、それがしが奇襲で家康軍を破ります」

 「奇襲か……よし、やってみよ!」

 「ははぁ!」

 左近は三成の即断に少し驚いたが、やっと兵を戦わせることができて奮い立った。





 島左近は宇喜多家の明石全登などの兵も加え、ひそかに杭瀬川に向かった。





 杭瀬川は東軍本陣の赤坂と、西軍の大垣城の中間にある川で、周辺には深い茂みがあった。この地点に布陣していたのは、東軍の中村一栄であった。

 左近は杭瀬川に達すると

 「明石殿は茂みに伏せられよ。我らは敵を釣ってまいる」

 そう言って5百の手勢と共に川を越え、中村隊の前で苅田を始めた。

 中村は激怒した。

 「無礼な……誰かあの者どもを射殺せよ!」

 たちまち2、3発の銃弾が飛び、左近隊の兵が倒れた。

 「こちらも撃ち返せ!」

 両隊が杭瀬川の前で激突し、乱戦となった。

 中村隊の野一色頼母が躍り出る。

 「我こそは野一色頼母である!島左近、いざ勝負!」

 「おお、心得た!」

 左近も馬を進め、頼母と槍を合わせる。2度、3度と槍を合わせ、左近は急に馬首を返した。

 「退却!」

 「なに!?臆したか左近!」

 コケにされたと思った頼母と兵達はそのまま追撃した。左近隊は少ない兵力の機動力を活かして素早く川を越え、来た道を戻る。

 頼母隊も後を追って川を抜けたとき、横から喚声が起こった。

 「しまった!」

 頼母はことの重大さに気付いたが、もはや遅い。しかも後方からは何も知らずに加勢に来た有馬豊氏の軍勢が押し寄せていた。

 「戻れ、戻れ。横腹を突かれるぞ!」

 横の茂みに伏せていた明石隊は一斉に槍を合わせ、突進した。更に左近隊が素早く反転して攻撃。

 「頼母!」

 「!!」

 兵達を掻き分け、左近の槍が頼母を貫く。遂に中村隊、有馬隊ともに潰走した。

 東軍の本多忠勝などが援軍に来たときには、既に西軍の姿はなく、この『杭瀬川の合戦』は西軍の圧倒的勝利に終わった。





 島左近と明石全登の挙げた戦果に、大垣城の西軍は沸きかえった。

 「家康恐れるに足らず!我らの力を持ってすれば、東軍など一捻りよ!」

 「オオォ!」





 数時間後、家康が大垣城を無視して大坂に向かうという情報が入った。

 西軍の首脳陣が集う。

 「家康が大坂に向かえば、大坂城の毛利輝元殿と挟撃できる。家康もそんな危険なことはしまい」

 「とすれば、大坂に進撃するというのは敵の流言か」

 「もし敵が、大坂ではなく、この大垣城に攻め寄せたらどうなる?」

 宇喜多秀家の言葉に、大谷が口を開く。

 「この城は昔から水害を受けやすい。つまり水攻めに弱いのだ。そうなればいかに大軍を持っていても、城から出ることが出来なくなる」

 「つまり、敵軍がこの城に来ては困る……ということか」

 「我らにとって最悪の展開は、敵軍が南下して南宮山の毛利殿、松尾山の小早川殿を取り込んでしまうことだ」

 「毛利殿と小早川殿を……」

 毛利軍を指揮する男の一人は吉川広家。彼は当初から毛利家が西軍に加勢することに反対していた。小早川秀秋はいまだにはっきりした態度を示さず、信用できない。

 「もし毛利殿と小早川殿が裏切れば、戦略的にも、兵力的にも、東軍には勝てなくなる」

 小西行長が静かに言う。

 「ならば、敵に城攻めをさせぬ為に、南宮山と松尾山を取り囲ませぬ為に、我々が城から出陣するしかあるまい」

 大谷も頷く。

 「場所は?」

 「…………関ヶ原はどうであろう」

 「関ヶ原か……」

 「関ヶ原ならば、大軍を有利に展開できる。松尾山、南宮山とも連携がしやすい。小早川殿も、毛利殿も、味方に囲まれては裏切ることもできまい」

 「どうだろう、三成よ」

 三成は地図を眺めながら、力強く周囲を見返した。

 「関ヶ原に行こう。そこで東軍を迎え撃つ!」





 その日の夜

 三成の下に義弘が現れた。

 「実は三成殿、わしらからお願いがあるのだが」

 「なんでござろう」

 「ここは一つ、夜襲を仕掛けてみてはいかがだろう?家康は赤坂に到着したばかり。先鋒を我が島津隊に任せてもらえれば、必ず敵軍を粉砕してみせるが」

 「貴殿の申し出は有り難いが、軍議で我々は関ヶ原に行くことが決まっている。それに敵は杭瀬川の一戦で警戒し、もはや今日は近づくこともできまい。それに貴殿らの兵力では……失礼だが、東軍とまともにぶつかり合いはできぬと思う。手柄がたいしてないのは分かるが、功を焦ってはいかぬぞ、義弘殿」

 クドクドと三成の説明を受け、義弘は黙って頷き、出て行った。

 (道理よ……三成殿の言うことは確かに道理よ……。だが、あの男の為に我が兵達が死ぬ……耐えられぬ!)

 石田三成と島津義弘。関ヶ原の決戦を間近に、最後まで馬が合うことはなかった。



 第八十六章 完


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