戦国島津伝




 最終章 『島津』

 大谷吉継、戸田勝成、平塚為広が戦死したことで、西軍の崩壊が始まった。





 天満山

 最も激戦が続いていた戦場の中央部。宇喜多秀家の軍も、正面と側面から攻め立てられ、次々に陣形を乱した。

 秀家の参謀明石全登は、もはや勝敗は決したと悟り、本陣に向かった。

 「秀家様!もはやこれまで、落ち延びてくだされ!」

 本陣の秀家は顔に青筋を浮かべ、尋常でないほど憤怒していた。

 「秀秋め……同じ豊臣の一門でありながらこの醜態。断じて許さぬ!この上は奴の首を取り、あの世で太閤殿下に詫びるのみ!」

 「お待ちくだされ!真の大将とは命ある限り戦う者。ここで秀家様が死んでは、全ては終わりでございます。この全登が盾となって防ぎますゆえ、なにとぞ、なにとぞお逃げを!」 

 「…………」

 「秀家様!」

 「……分かった。死ぬなよ、全登!」

 秀家は馬に飛び乗り、関ヶ原を脱出した。

 その後、明石全登は部隊を率いて戦場に踏み止まり、偶然にも黒田長政に助けられて九州に落ち延びる。

 宇喜多秀家は薩摩の島津家にかくまわれ、徳川に引き渡された後も島津家と妻の実家の前田家の助命嘆願で命を長らえ八丈島に配流。

 1655年に没し、関ヶ原で戦った武将の中では最も遅くに亡くなった。





 宇喜多軍の壊滅と同時に小西行長も支えきれずに敗走。彼は9月19日に捕らえられ、六条河原で斬首された。









 笹尾山

 傷を負ったまま三成の家臣島左近は馬に乗った。体には火薬を詰めた袋を背負っている。

 「やはり、馬に乗ると、体が生き返るわ」

 刀を抜き、左近は馬の腹を蹴った。馬は前線の大乱戦に臆することなく、左近の意志のまま、真っすぐに走った。

 「我こそは島左近である!これより最後の雄姿をお見せする!者どもご照覧あれ!」

 全身から流れる血で、左近だけでなく馬も赤く染まる。そのあまりの凄まじさに東軍の将兵は二の足を踏んだ。ある者は左近が近付いただけで逃げ出し、ある者は遮二無二槍を振ってかわされた。





 前線の鉄砲頭の一人は、数人の部下を引き連れて戦っていたが、そこに左近が飛び出してきた。

 「うおおおおおお!!」

 その時、恐怖に駆られた兵士が鉄砲を構えた。

 「待て!撃つな!」

 組頭の言葉も間に合わず、銃声が鳴り、弾は左近の背負っていた火薬袋に吸い込まれた。









 笹尾山 三成本陣

 「恐らく、今の音は左近殿の、最期の散り様」

 「どうやら、わしは負けたようだ」

 その言葉に、舞兵庫は静かに首を振る。

 「いいえ、まだ殿には佐和山の城と領民がおります。殿が領内に帰還されれば、必ずまた再起は望めまする」

 「……そうか、そうだな。わしはまだ死ねん。この戦場で散った者達の大志を、わしは何としても成就させねばならん」

 三成は立ち上がり、兵庫は急いで馬を連れて来た。

 「後はお任せあれ。石田家の武名、決して汚しはしませぬ」

 「兵庫……」

 三成と兵庫、それに周りの将軍も頷く。三成は最後に家康の居る桃配山の方を一瞥し、馬を走らせた。

 彼は9月21日に捕縛され、小西や安国寺と共に六条河原で斬首された。









 石田軍の前線で指揮を執る蒲生頼郷は、馬上より槍を構え、敵軍に突進した。

 「我は石田家の蒲生頼郷!存分にお相手する、いざ参れ!」

 そこに現われたのは、織田有楽斎であった。

 「ほう、蒲生頼郷か」

 「これは織田様、ここで会ったも何かの縁、是非勝負願いたい」

 「くだらん。勝敗は既に決しておる。素直に降るか、無様に死ぬか、選べ」

 「……武人の死に無様という言葉はありませぬ」

 言うが早いか、頼郷は一気に馬を進め、有楽に斬りかかった。









 蒲生頼郷討ち死にの報告に、舞兵庫はかつて同じ豊臣秀次に仕えていた大山伯耆、森九兵衛、牧野成里、高野越中、大場土佐などの、俗に『若江八人衆』と呼ばれた者達を集め、最後の号令をかけた。

 「三成様の恩義に報いるは今この時!者ども、あの世で会おう!」

 全員が頷き、それぞれ持ち場に帰った。

 兵庫は百発百中の弓の腕を誇り、愛用の弓を手に前線に打って出た。兵庫は、次々に東軍の兵を射殺した。

 それでも、敵は雪崩を打って押し寄せる。

 兵庫は脇腹と胸に矢と鉄砲を浴びたが、刀を抜いて突進。そこに両脇から槍が飛び出し、兵庫の体を貫いた。

 その後、大山と森の二人は兵庫と共に討ち死にしたが、他の八人衆の者達は戦後を生き延びることになる。









 石田三成の敗走によって、西軍は事実上壊滅した。

 南宮山の西軍も吉川広家に阻まれ、一度も戦わずに敗走。毛利家は大きく領内を削られ、長宗我部家も四国を追われることになる。





 最後に残された西軍は、小池村に陣取る島津隊。

 本陣の床几に座り、大量の汗を流しながらも義弘はまだ動かなかった。

 「宇喜多、小西、石田の軍勢が壊滅!残党が我が陣にやってまいります」

 「陣を乱させるな!近づく者は味方でも追い払え!」

 「ははぁ!」

 徹底した孤立主義によって、島津の陣には西軍の敗残兵も入れなかった。東軍は既に西軍の追撃に移っており、島津隊は四方を囲まれつつあった。

 「南からは小早川、北と東からは敵が押し寄せて参ります、義弘様」

 長寿院盛淳が手に持った鞭を擦りながらゆっくりと口を開く。他の将兵も、どこか落ち着いている。ここまで来ると、人間妙に冷静になるものだ。まして島津隊の将兵は上も下も歴戦の猛者。義弘を慕って付いてきた忠義の者達なのだ。

 義弘は深く息を吸った。そして……。

 「盛淳」

 「はっ」

 「敵はいずかたが猛勢か?」

 盛淳はしばらく黙った後。

 「東よりの敵、もってのほか猛勢」

 それを聞くと、義弘は立ち上がり。

 「その猛勢の中に、あいかけよ!」

 と叫んだ。









 開戦当初、関ヶ原を覆っていた霧はもうない。逆にあるのは、東西両軍の死体だけ。もはや戦局は追討戦に入り、かつて激戦地だった関ヶ原中央に残るのは僅かな部隊だけだ。仲間の救助、重傷な者への止め、最前線からの伝令など、やることは意外に多い。それでも、どうせなら敵と戦って功名を得たいと思う者は当然いる。そんな考えにとらわれ、思わず木陰で休んでいた兵の一人が、前方で叫び声を聞いた。

 「ん?」

 次に馬蹄の響き。次第に近づき、兵は咄嗟に槍を掴んだ。前方からやってくる黒い集団。

 「味方……か?」

 もはや西軍は壊滅しているはず。残った部隊もとっくに敗走するか寝返るか。

 だが、明らかに目の前の集団は完全な殺意を持って迫ってくる。

 兵があっと思った時には、首が吹き飛んでいた。









 桃配山

 家康はその報告に度を失った。

 「島津が突撃だと!?」

 「はい、黒田隊と小早川隊の両脇をすり抜け、福島隊に激突しております」

 (なぜだ、もはや勝敗は決したというのに、まだこの家康に逆らうのか……)

 もとより自分に敵対した島津を許す気はなかったが、それでも島津の行動は常軌を逸していた。

 「……島津の数は?」

 「分かりませんが、2千はいないものと」

 「よし、では島津の首をこの戦の花にしてやろう。何としても島津を討て!」

 「御意!」









 島津隊の先鋒は島津豊久。彼を中心に島津隊は鋒矢(ほうし)の陣形を作り、まるで矢のように敵軍を突破していく。

 豊久は馬上から刀を振り回し、近寄る敵兵を払う。その形相は鬼と言って過言ではなかった。

 「島津豊久ここにあり!者ども進めや!」

 陣形の中央には島津義弘。しんがりは長寿院盛淳が務めた。彼らは文字通りの真一文字になって戦場を駆けた。





 「何だ、こいつら!」

 福島正則は自軍の横を突進して踏み破る島津隊の凄まじさに驚愕し、身震いを覚えた。

 今まで多くの敵を相手にしてきても、決して恐怖を感じなかった自分が……。

 正則は怒りよりも、むしろ島津の大将である義弘に尊敬の念を抱いた。

 「あれは死兵である。道を通せ、無暗に当るな」





 四方を埋め尽くす敵の大軍。まるで積った雪を掘り進むように強引に前へ押し進む島津隊。

 それでも、決して歩みは止まらない。

 「島津は進撃を続け、間もなくこちらに!」

 家康は床几から立ち上がり、叫んだ。

 「なぜ止められん!聞けば僅かな兵力。何を手間取ることがある!」

 恐怖。この感情に、家康は戸惑い、憤激した。

 「敵に勢いをつかせるな!陣を堅く守り、突撃を阻止せよ!」





 義弘は馬上から槍を振り回し、敵兵を薙ぎ払う。その姿は鬼神そのもの。とても60歳の高齢とは思えない。ある意味、戦場が義弘を若返らせていた。

 「目指すは家康殿の本陣!いざ進めぃ!!」

 敵は見渡す限り居る。その敵軍の中に馬を走らせ、駆ける。何も恐れることはない。これはもはや戦ではない、家康との喧嘩なのだ。





 敵兵の集団に突っ込み、そのまま馬を走らせると、急に視界が開けた。

 気づくと義弘は、家康の本陣の前にいた。

 「…………」

 前方にいる筈の家康。天下を取った家康。だが……。

 「勝ったぞ!!」

 義弘の大音声が、戦場に響いた。

 その直後、馬首を回し、家康本陣の横を走り去る義弘。後から後続の島津隊も続く。





 家康は何が起こったか分からなかった。ただ、自分の中に凄まじい怒りがあるのは認識できた。

 「島津を追撃せよ!一兵も逃すな!」





 遂に、家康本陣をかすめて敵軍を突破した島津隊は、南の伊勢を目指して逃走した。

 追撃する武将は本多忠勝、井伊直正、松平忠吉である。





 「豊久様!敵の追撃です!」

 家臣の言葉に、豊久は僅かに残った残存兵を集め、全員を伏せさせた。

 「敵を十分に引きつけて撃て!もはやこの戦、我らの名は天下に残ったぞ!」

 前方から黒い騎兵部隊。本多忠勝は黒毛の馬に乗り、自慢の槍を背負って向かってくる。

 そのまま、敵が伏せた島津兵の目の前まで来たとき。

 「放てぃ!!」

 銃声が響き、敵が崩れ、忠勝の馬も撃たれた。

 「島津豊久!ここにあり!!」

 「うぬ、小癪な!」

 豊久は刀を抜き放ち、忠勝に躍りかかる。乱戦となった。

 忠勝は巨体に似合わぬ俊敏な動きで豊久の斬撃をかわすと、槍ではなく、脇差しで豊久の胸を突いた。豊久はなおも斬りかかるが、忠勝の兵に槍で突かれ、そのまま息絶えた。

 島津豊久、享年30歳。鳥頭坂(うとうざか)での死戦であった。









 義弘は味方が討たれ、豊久隊の全滅を聞いても、なおも走り続けた。自分が死ねば、ここまで来た島津の将兵は何の為に死んだのか分らなくなる。

 戦で人は死ぬ者。だが、死ぬならせめて、後世に残る最期を迎えたい。義弘は散っていった味方の名誉の為に走った。体力は既になく、あるのは気力のみ。





 しかし、すぐそばでまた敵兵に捕捉された。

 義弘の横で走っていた長寿院盛淳は、馬を寄せると

 「殿、どうやらやっと私の番のようです」

 「盛淳……」

 「島津に仕え、殿に出会えたこと、忘れません」

 盛淳はそう言って馬首を返し、付近の味方を集めた。

 「よいな、半数は先に進み、半数は残れ。捨てがまりを開始する」

 捨てがまりとは、島津家独特の戦法であり、何人かの兵が道々に銃を持って隠れ、敵が来たら銃を撃って飛び出し、死ぬまで戦う戦法である。

 本隊を逃す為だけの戦法、生き残る可能性は皆無のこの非常な作戦にも、兵達は動じない。彼らにとっては、義弘が生きて薩摩に帰ることが自分達の誇りなのだ。





 追撃隊が近付いてくる。全員が赤一色の軍装。井伊直正率いる『赤備え』の軍隊である。

 盛淳は叫んだ。

 「我こそは島津義弘である!いざ勝負せよ!!」

 そう言って数人の部下に鉄砲を撃たせ、飛び出した。

 「あれこそは惟新入道(義弘)!皆の者、かかれ!」

 直正に続いて松平忠吉の部隊も到着。島津兵は次々に討たれ、盛淳は刀を忠吉の膝に投げた後、敵に首を取られた。

 長寿院盛淳 戦死。

 「忠吉様、御無事で!」

 膝を負傷した忠吉に駆け寄ろうとした直正の右肩に、鉄砲が被弾した。

 「直正様!」

 「不覚だ……だが、惟新は討ち取った、これで」

 「それが、どうも惟新入道様ではないようで」

 「なに!?……影武者か。してやられたわ」

執拗に島津隊を追撃した井伊直正であったが、彼は戦後に島津家の頼みで島津の所領安堵に尽力し、この時に受けた傷が元で死んだ。

 更に、追撃隊は長寿院が放った島津兵の伏兵攻撃(捨てがまり戦法)によって追撃の手が止まり、家康は追撃中止を決断。









 午後3時頃、東軍は勝鬨を上げ、6時間にも及んだ関ヶ原の合戦は終わった。





 合戦当初は1500人ほど居た島津隊は、その数を80余人まで減らしながらも退却を続け、翌日の9月16日には近江の水口に到着。更に西に敗走して、9月22日には大坂にまで逃げ延びた。









 関ヶ原の合戦後

 大坂城

 関ヶ原の西軍敗北の報に、大坂を守っていた西軍の総大将毛利輝元は城の明け渡しを決意。立花宗茂などは頑強に反対したが、輝元は決断を変えなかった。





 こういった情勢の中で、大坂城の実窓夫人(義弘夫人)は大坂からの退去を家臣に命じた。

 「退去……でありますか」

 「そうです。もはやここにいる意味はありません。薩摩に帰りましょう」

 「そう素直に毛利様や他の方が許すでしょうか」

 「大丈夫です。私に考えがあります」

 亀寿姫(島津龍伯の娘で、実窓夫人の息子の嫁)が、心配そうに口を開く。

 「義父様は、生きておいででしょうか」

 「さあ」

 「さあ、とは?」

 「さあだから、さあです。皆さん、準備をしなさい」





 実窓夫人は豊臣氏や毛利氏の前で

 「夫の義弘が死んだので、国に帰って菩提を弔いたい」

 と言って帰国の許可をとりつけた。

 だが。

 「なぜ亀寿様はいかんのだ!」

 怒ったのは相良長泰。大坂城の豊臣氏などは実窓夫人の帰国を許したが、なぜか亀寿姫の帰国は許さなかった。

 「私は構いません。ここに残ります」

 その言葉に、実窓夫人が笑う。

 「あらあら、若いあなたが残って、この老婆が一人帰ったと知れば、私は面目がありません。そんなこと許しませんよ」

 「ですが……」

 その時、若い侍女が手を挙げた。

 「あの、私が姫様の身代りになります!」

 大田於松という亀寿の侍女である。

 「於松、気持ちは嬉しいのですが」

 「いえ、やります。やらせてください!」

 「命を失うかもしれんぞ」

 相良が怖い顔で脅す。が、於松は気丈にも周囲の者を見渡して動かない。

 「私はこうみえても身軽です。皆様が城を出た後、必ず私も合流します。ですからどうか、お早く!」

 実窓夫人はじっと於松を見て、静かに頷いた。

 「……頼みます」





 こうして相良長泰の護衛の元、実窓夫人、亀寿姫は大坂城からの脱出に成功。西宮(現在の兵庫県西宮市)に向かい、海路から薩摩に帰ることにした。





 そして、西宮に到着した夫人達に、思いもかけない知らせが届いた。

 「薩摩の軍勢がこの西宮に滞在しているそうです!」

 長泰の報告に、実窓夫人と亀寿姫は互いに顔を見合わせた。

 「知り合いの商人から聞きました!」

 「薩摩の軍勢、つまり……」

 「とにかく長泰、すぐに行ってくれませんか?」

 「ははぁ!」









 西宮まで敗走を続けた島津義弘と家臣達。

 彼らは落武者狩りや飢えを切り抜け、精も根も尽き果てていた。

 そんな島津隊の宿泊する商人の屋敷に、長泰は駆け込んだ。この商人は、島津家と懇意の仲だったのだ。

 「ごめん、我が名は島津が家臣相良長泰!ここに泊まる薩摩の武士にお会いしたい」

 長泰の前に現われた島津の武士は、長泰の知り合いだった。

 「中馬ではないか!」

 「長泰……長泰か……長泰!!」

 こうして遠い大坂で、島津隊は大坂の仲間と合流した。





 義弘はフラフラの体で妻や息子の嫁が待つ西宮の船場まで来た。遠くに、仲間の歓喜の声が聞こえる。

 義弘は妻の姿を確認すると、全身の力が抜けたかのごとく、号泣して妻の小さな膝に顔を埋めた。

 「あらあら、この人はもう、皆の前ですよ」

 恥も外見もない、本心のままの涙。その姿はとても小さかった。

 義弘のそんな姿を見た兵達も、次々に膝をつき、泣き出した。状況を知らぬ大坂の町民が好奇の目線を送る中、島津の猛者達は大声を上げて泣いた。それが、彼らにとっての関ヶ原合戦の終焉であった。





 「さあ、船に乗り、薩摩に帰りましょう」

 「待て、妻の話だと、於松という娘が亀寿の身代りになっていると聞く。その者が来るまで待つべきだ」

 「ははぁ」





 翌日

 「船の用意はできました。しかし於松の姿は……」

 「…………」

 義弘は動かなかった。ここに来て一つでも心残りは残したくなかった。

「義弘様がご無事だとは既に伝えておりますが、大坂城内は今緊迫しており、うまく脱出できるか」

長泰がそう言った時、兵が一人駆けて来た。

 「平田増宗殿が到着!於松を連れております!」

 「おお、まことか!」

 平田増宗、吉田清孝などの島津家臣は於松の護衛として大坂城に残っていた。彼らは喜色満面で義弘と合流した。

 「愉快、愉快。義弘様、於松は見事に豊臣や毛利をあざむき、城から抜け出しましたぞ」

 この日は9月24日。大坂城に籠っていた西軍の毛利輝元が城を家康に差し出して退去したのだ。於松と平田達はその混乱を利用し、城から抜け出たのである。

 於松は義弘の前に出ると、恐縮して顔を伏せた。

 「於松でございます」

 「お前の勇気によってわしの妻や嫁は救われた。礼を言うぞ」

 「私は侍女としての役目を果たしただけでございます。礼など滅相もありません」

 「そうか……うん、そうか」

 後に島津家は於松の功績を称え、彼女に300石を与えた。









 こうして、島津義弘は妻や家臣を連れ、瀬戸内海に出向。

 途中で立花宗茂と合流した。この時、宗茂は島津に恨みを持つ家臣達を抑え、義弘と改めて友好を結び、共に九州に帰還。九州に入って後義弘達は、まず同行していた故・秋月種実の奥方を秋月家に返し、10月3日に島津龍伯の富隈城に入った。





 島津龍伯と義弘の兄弟は、久し振りに対面を果たした。

 「…………」

 「…………」

 互いに語らない。語らずとも、伝えないことは分かる。

 龍伯は黙って部屋を退出し、義弘はただ、頭を下げ続けた。その眼には、熱い涙があった。





 島津家はその後、島津忠長や新納旅庵などが中心になって徳川家に謝罪。同時に国の防備を固め、加藤清正などの襲来に備えた。

 「家康へは井伊直正殿がお口添えをしてくれているようです」

 「井伊直正……面白い男だ」

 家康も島津への対処には困った。ここで無理に島津攻めを強行すれば、手に入れた天下の地盤が崩壊するかもしれない。まだ敵は多くいるのだ。

 そして関ヶ原の合戦から2年後の1602年、家康は遂に島津の所領安堵を申し渡した。

 「義弘の行動は個人行動であり、島津家は一切関知してはいない」

 無理やりな方便に聞こえるが、島津家の粘り強く強気な政治交渉に家康が折れた形である。実際、所領安堵の報を聞いても、島津龍伯は江戸に行って家康に会うことを拒否。代わりに後継ぎの島津忠恒が江戸で家康にお礼を述べたほどだった。





 その後

 慶長七年(1602)

 日向 野尻

 「ここらでよかろう」

 忠恒の言葉に、忠真が顔を向ける。

 「やはり、そういうことでしたか……」

 鉄砲を構えた兵が忠真を取り囲む。

 「最後にお願いがあります」

 「何だ?」

 「母と弟達だけは、お許しください」

 「…………できぬ」

 銃声が響き、忠真の体が吹き飛ぶ。こうして、島津忠恒は江戸への参勤途中に宿敵で義兄弟だった伊集院忠真を抹殺するのに成功。彼の母も弟も殺され、伊集院一族は次々に粛清された。

 忠真の妻であり、忠恒にとって実の妹の御下は江戸に送られ、父の義弘が死ぬまで暮らした。





 慶長十六年(1611)

 島津龍伯は国分城に移っていた。理由は跡継ぎの忠恒と娘の亀寿の不仲がいよいよ深刻化し、忠恒が独裁性を発揮し始めたからである。

 だが、時間切れでもあった。

 「長生きをしすぎたようだ。ここ数年、嫌な思いばかり味わった」

 家臣達が龍伯を取り巻く。大半が年老いた者ばかりだ。

 「大殿……気をしっかり」

 「わしが死んだら、島津の宝を亀寿に与えよ。そうすれば、忠恒も、手出しはできまい」

 数日後の1月21日に島津龍伯は静かに没した。享年78歳。





 娘の亀寿はすぐに国分城に移り、忠恒と終生戦った。彼女には領民からの同情と、龍伯が残した島津家系図などの宝があったので、忠恒も黙認せざるを得なかった。亀寿は忠恒の側室が生んだ虎寿丸(島津光久)の養母となり、彼を2代目薩摩藩主にすることに成功する。実は虎寿丸は、龍伯の血を引く者だったのだ(光久の母は龍伯のひ孫に当たる)。

 その事実を忠恒は永遠に知ることなく、1638年に62歳で没した。









 関ヶ原から帰った島津義弘は、晩年を加治木で過ごし、若い家臣達の教育や学問の奨励に励んだ。

 だが歳を取るごとに力は失われ、体も満足に動くことはなくなった。最愛の妻や兄の死によって、精神的にも弱りきっていた。





 ある日

 いつものように朝から布団に潜り、弱い呼吸を繰り返しながら庭を眺めていた義弘は、突如どこからか法螺貝の音が聞えた。偶然義弘の家に遊びに来ていた家臣の子供が吹いたものだった。

 その音を聞いた途端、義弘はガバッと布団から跳ね起き、庭に飛び出した。

 「何事か!」

 驚いた家臣が駆け寄る。

 「申し訳ありません。子供がイタズラで貝を鳴らしました。すぐに叱ってまいります」

 「いや……よい。そうか、子供のイタズラか……」

 義弘は部屋に戻り、布団の上に乗った。その時、不意にどうしようもなく、可笑しさが込み上げた。

 「ふ、ふふ、はっはっは、あっはっはっはっはっは!!」

 1619年 島津義弘は加治木で没した。84歳の大往生だった。

 辞世の句「春秋の花も紅葉も留まらず、人も空しき、関路なりけり」





 その後、島津家は明治維新までその血脈を保つことになる。



 最終章および戦国島津伝 完




 あとがき
 長い長い間、ご愛読いただきありがとうございました。

 作中では満年齢を採用しておりました(当時は数え年)。


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