志純太平記




 第十三話 『白桜十字詩〜桜に誓う狂心〜』

 備前国に戻った児島高徳は、何することもなく、昼寝やお経を読んで過ごした。世間では『元弘の変』に対する残党狩りや後始末で騒がしいというのに、彼は至って平穏だった。

 日野俊基は鎌倉で処刑され、彼を動かしていた情熱は飛び散った。最後の最後まで、俊基は高徳が憧れた『何か』のまま、死んでいった。

 死んだら何も残らない。全ては無に帰す。当たり前のことだ。

 (案外。あっけなかったな)

 瀬戸内海から流れる潮の香りを堪能しながら、今日もまた、彼は静かに横になった。





 「たまにはどこかへ出掛けませんか?」

 妻の貞子の提案で、若い夫婦は海辺を散策した。

 「いい風ですね」

 風に靡く貞子の黒髪は確かに美しく、高徳も思わず見惚れた。だが、冷たい海のように、彼の心は冷えていた。

 「たまには海で泳ぎたいものです。子供の頃は、よく泳いだものですわ」

 「俺も泳ぎは得意だ。ただ……」

 「ただ?」

 「泳いだとて、行く場所はない」

 「ふふ、可笑しな人」

 「ん?」

 「全部の物事に理由や目的など、あるわけないじゃないですか。ただ山があるから登り、海があるから泳ぐ。私の祖父もよく言っていましたわ。人生は当てずっぽうだから楽しいと」

 「そうか、貞子は色々なことを知っているな」

 「徳子にもそのうち泳ぎは覚えさせますわ」

 徳子とは高徳と貞子の子供で、昨年生まれたばかりの女子である。鎌倉から高徳が帰国するまで、貞子の下女や赤尾丸が面倒を見ていた。お陰で赤尾丸に散々嫌味を言われたのである。

 「徳子は誰に似るかな」

 「私ですわ」

 即答する貞子に苦笑する。

 「それは嬉しいな。俺に似たら大変なことだ」

 「でも、徳子には何ていいましょう……」

 「何がだ?」

 「あなたの父親はどんな人なのかということ」

 「…………」

 「毎日何することもなく、一日中のんびりしているお前様。私は面白くないわ。そんな人を見ても」

 「面白くないか、俺は」

 「いいえ、こうすれば面白いですわ」

 と言って、いきなり足を払われる高徳。盛大な音を立てて海に突っ込んだ。

 貞子は笑いながら逃げていき、高徳は呆然としながらその後姿を見つめた。





 「暗い亭主に明るい奥方様。まさに似合いの夫婦ですな」

 家に帰ると赤尾丸が剣の稽古をしていた。始めて会ったときはまだ幼さの残る小童だったが、今は成長して立派な少年になっている。背は相変わらず小さいが。

 「お前は、これからどうする」

 高徳の問いに、稽古の手を止める。

 「俊基殿は亡くなりました。主人を失った私はもう行くところがありません。出来うるなら、ここに居たいのですが」

 「そうか。そうしてくれると俺も助かる」

 「ところで……あなたはどうするのですか?」

 「さて……どうしようかな」

 「髀肉之嘆(ひにくのたん)とは、あなたのことを言うのですよ」

 去っていく赤尾丸を目で追いながら、高徳は考えた。

 (どういう意味だろう?)





 それから更に数日が過ぎると、かつての悪友達が訪ねてきた。

 「おうおう、聞いたぜ児島。京まで行って戦してきたんだってな」

 「まあ、な」

 「何人斬ったよ」

 「さて、わからんな」

 「ふん。怖気づいて逃げてきたんじゃないのか」

 「そうかもな」

 「ぐっはっはっは!可笑しな奴だな、相変わらず」

 やがて酔いが回り、全員が寝始めた頃になると、もう高徳の相手は一番体格のよい吉丸だけとなった。

 「みんな、食うだけ食って飲んで、勝手に寝たな」

 「お前さんはここらでは金持ちだからな。それにお前さんという人間は不思議に話しやすい」

 「そういうものか?」

 「お前さんは他人にも自分にも興味がないんだな」

 「かもしれん」

 「それはそうと、京の動乱に参加した俺の友達がな、後醍醐天皇が近々隠岐島に流されるそうだということを話してくれたぞ」

 「帝を隠岐島に配流か……幕府はいよいよ本腰だな」

 「まあ、俺達には関係ないことだがな」

 「関係ない……」

 その一言はどこか遠くに聞え、自分の中で誰かが怒っていた。





 元弘2年(1332年)

 後醍醐天皇の一行は京を出発。行き先は隠岐島。

 日本の長い歴史の中でも、皇族以外の勢力が在位中の天皇に対してこれほどのことをした例は少ない。武家という一身分が出来てからは更に例がない。人々は新しき時代の到来を困惑しながらも迎えた。

 そんな一行を見守る男達……時代はまだ、動いていた。





 天皇一向が通るであろう播磨国(兵庫県南西部)と備前国(岡山県東南部)の国境付近・船坂峠(ふなさかとうげ)。

 そこにおよそ2百人ばかりの軍勢を率いて潜んでいる者達がいた。

 「父上、本気で」

 「本気だ。高徳よ。わしとていつまでも備前の片田舎で終わる男ではないわ」

 軍勢を率いている男は和田範長。副将格はその養子で児島高徳。

 和田は天皇が隠岐島に流されると聞いたときから決起のときを待っていた。もっとも最後の最後まで迷ってはいたが。

 彼は天皇を奪還し、そのご威光を持って成り上がろうというのだ。彼は備前の邑久郡に勢力を持つ三宅一族の統率者。いわば土豪の頭だ。しかし所詮は土豪。機会がなければずっと農民と同じ暮らしで終わる。だが、人生全てを一変できる千載一遇の機会が訪れ、和田はそれに乗った。

 後醍醐天皇奪還に向け、備前国三宅一族が動き出した。





 標高180mの峠。周囲に道は少なく、また天皇一行は彼らを警護する幕府軍の大軍に囲まれ、行軍速度は遅い。

 大事なことは、いかに短時間で素早く天皇を奪還するかだ。





 静かに天皇を待つ間、高徳は自分の置かれている状況に不思議と安堵していた。まるでここに居ることが、いや、今からやろうとしていることに対して、満足感があった。

 「義兄上、どうしましたか?」

 義弟の三宅宗助に声をかけられ、高徳は我に返った。

 「ん?いや、別に」

 「しかしとんでもないことになりましたな。まさか帝を奪還するなどと」

 「父上も、武人だったということだ」

 言ってから、少し可笑しかった。





 和田範長の軍勢が峠に伏してから、数時間。いつまで経っても天皇一行は来ない。軍勢の中からはざわざわと騒ぐ者達もいた。所詮は土豪の軍。統率力は武家のそれと比べるべくもない。

 「父上、帝の一行はここを通らず、別の道を」

 「しかし、大軍を通すにはここが一番無難な道では」

 「もしくは、帝の一行は既にこの道を通り、先に行っているとしたら」

 「……確かに、これまで待っても来ないということは、我々は一行を見失ったのだろうな」

 「宗助」

 「は、はい」

 「お前は数人を率いて播磨の西に向かえ、帝の一行は巧妙に偽装されている可能性がある。見落とすなよ」

 「わかりました!」





 高徳の予想した通り、天皇一行は既に播磨国を越え、美作国(岡山県東北部)付近の院庄(岡山県津山市)へ達していた。

 「無念です。帝一行は美作国の守護北条氏の手勢で守られ、近づくことは出来ませんでした」

 「うむむ……」

 このことを聞いた和田の手勢は一人二人と去っていった。

 「ここまでか、ふん。はかない夢だったな」

 範長は自虐的に笑うと、備前国に引き揚げていった。

 残ったのは三宅宗助と児島高徳、そして赤尾丸。

 「どうしますか、義兄上」

 「高徳さん」

 「…………」

 無言で、高徳は歩いた。美作国へ。

 「あ、義兄上!?」

 赤尾丸も後に続いて歩いた。

 「赤尾丸……」

 しばらく迷ったが、宗助も後を追った。





 美作国守護館(現在の作楽神社、院庄館)

 深々と雪が降り、辺りが真っ白に染まったこの館に、三人の男達が野に伏せながら到着した。

 「至るところ武士ばかりですな」

 「お前達は来るな」

 「ですけど、いかに高徳さんでも、この厳重な警護では。第一、本当に一人で帝を助けだせると?」

 「…………」





 厳重な警護、冷たい雪と風、それらを次々に突破し、一歩また一歩と天皇の宿舎に近づくにつれ、高徳は奇妙な感覚に襲われていた。

 「くっ……くっくっく」

 自分はいま、誰にも出来ないことをしているのだ。この世で一番貴い人物を守ってやれるのは自分だけ。死んだ友との約束を果たそうとしている。

 行動全てが、快感だった。自分はこの日のために、こういう『道』を歩むために、生きてきたのだ。

 そう思えた。

 いまの彼は、まさに狂人だった。





 だが、さすがの高徳でも宿舎には近づけなかった。厳重が今までの比ではない。

 いいようのない悔しさが湧き上がる。

 (ここまで来て……ここまで来て!)

 その時、快感に飢えたケモノは一本の雪の積もった桜の木を見た。

 ちょうど他からは四角になっている。高徳はおもむろに短刀を取り出すと、桜の木を注意深く削りだした。

 やがて皮が削れ、白い幹が現れた。そこに彼は漢詩を彫った。

 『天莫空勾践 時非無范蠡』





 天、勾践(こうせん)を空(むな)しくすること莫(なかれ)

 時に范蠡(はんれい)無きにしも非(あらず)





 意味

 「天は古代中国の越王である勾践を助けたように、決してあなたを見捨てはしません。いずれ范蠡のような忠臣が現れるでしょう」





 彫り終わり、高徳が静かにその場を去ろうとしたとき、騒ぎが起こった。

 「誰だ!」

 「おい、どうした!」

 「玄関に怪しい男が!」

 男達が次々に立ち去っていく。恐らく宗助達が見つかったのだろう。

 理由はどうあれ、これは好機。高徳が宿舎に近づこうと表に飛び出したとき、野太い男の声が聞えた。

 「そこで止まれ!!」





 横を見ると、巨漢が立っていた。恐らく名のある武士だろう。

 「一人か?なかなか度胸のある奴だ。名は?」

 「……児島高徳」

 「聞かんな。まあよい、俺の名は足利直義。ここで会ったが不運だったな」

 男が太刀を引き抜いた。



 第十三話 完


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