戦国島津伝




 第十四章 『戦に飽きて』

 島津家十五代当主貴久は、義久に家督を譲り、自らは隠居して白囿斎(はくゆうさい)と名乗っていた。

 そんな貴久が、父である島津日新斎(忠良)に呼ばれた。

 永禄11年12月の事である。




 薩摩加世田城

 奥の間に通された貴久は、久方振りに父の姿を見た。

 「貴久か、いや、白囿斎殿と呼んだ方がいいか」

 「父上・・・」

 布団に横たわる日新斎は弱々しく、かつて戦場を駆け抜けた勇者の面影は、その鋭い眼光ぐらいである。

 「父上、何用ですかな」

 「なに、死ぬ前にお前の顔でも見ておこうと思ってな」

 「そんな事を」

 「言うな。自分の事は、自分が一番良く分かる」

 「父上は、まだ長生きして貰わねば」

 「戦に勝ち、他国と交流し、国を強く、そして豊かにしてきた」

 日新斎の目は、どこか寂しげである。

 「戦場で死ぬなら本望と、いつも思ってきたつもりが、今はこうして畳の上で寝ておる」

 「父上がいたからこそ、この国は他国の侵略を受けず、今日まで生き抜いて来ました」

 日新斎に、貴久の言葉が届いているかは分からなかった。

 ただ彼は、静かに語り続けた。

 「わしはお前や孫達に、戦で人の殺し方を教え、一方では命の尊さを説いた」

 「教えは、皆守っております」

 日新斎は小さく唸り声を上げ、顔を顰(しか)めた。

 「生きる為に人を殺し、徳を積む為に人を生かす。人とは、つくづく悲しい生き物よな・・・」

 「それが人です、父上」

 「何の為に、わしは戦を続け。息子や孫達に、人を殺させるのか。いつか夢見た平和な世を、菩薩の浄土の世界を、今生で見たかった」

 それから日新斎は、昔の事を話した。

 数刻の後、話が終わり、貴久が帰ろうと立ち上がった。

 だがその時突然

 「すまなかったな、貴久」

 貴久が驚いて振り返った時、日新斎は既に布団を被っていた。




 それから数日後、日新斎は入寂した。享年七十七歳の大往生であった。

 儒学を学び、後年はその儒学と、仏教の慈悲を調和させて、薩摩独自の士風を形成した。

 彼が隠居後に名乗った日新斎とは、『荀日新、日々新、又日新(まことひにあらたにして、ひびあらたに、またひにあらたに)』と言う意味である。

 また、彼が作り、薩摩人の教訓にもなった『いろは歌』は、四十七首の和歌になっている。例えば

 『い いにしへの道を聞きても唄へても わが行にせずば甲斐なし』

 『は はかなくも明日の命を恃むかな 今日も今日もと学びをばせぞ』

 『と 科ありて人を斬るとも軽くすな 活かす刀もただ一つなり』

 『つ 辛しとて恨みかへすな我れ人に 報い報いてはてしなき世ぞ』

 『む 昔より道ならずして驕る身の 天のせめにしあはざるはなし』

 などが、延々と四十七首続く、どれを取っても心に染みてくる和歌であり、忠良の精神が窺える。




 『菩薩の分身』・『島津家中興の祖』と評された忠良が、最後に残した言葉。

 「吾が子孫三代までは菩薩の分身なり、三代に至るまで開運せずば、これ吾は菩薩に非ず、島津の子孫にあらず、天然の外道なり」


 第十四章 完


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