戦国島津伝




 第六十一章 『九州戦争』

 天正十四年(1586年)8月

 日向(宮崎県)方面総大将・島津家久は一人、自室で刀を見つめる。

 「・・・・・」

 今年で彼は39歳。男としてもっとも脂の乗り切った時期。

 彼の率いる島津東軍は、日向から北上して大友家の本拠地豊後(大分県北部以外の部分)を攻め取り、頑強に抵抗する大友宗麟、その息子大友義統を屈服させるのが最終目的だ。

 現在、家久は『大友家南郡衆』と呼ばれる、豊後の南に位置する豪族達を味方に引き入れようとしている。彼らが島津に付けば、肥後(熊本県)から豊後に攻撃することが可能になり、大友家を九州から追い出すことも容易だ。





 「家久様」

 自室の外で声がした。家久は顔をそちらに向ける。

 「久春か?」

 「緊急事態が発生しました、ごめん」

 そう言って、島津家久の副官・伊集院久春が部屋に入る。たくましい体格と精悍な顔立ちは、伊集院家の特徴が良く出ている。

 もっとも、それは彼の幼少からの努力にも関係しているが。

 「緊急事態?いったい、何があったのだ」

 「肥後から筑前に攻め入っていた島津忠長様が、撤退しました」

 「撤退・・・そうか、立花宗茂に負けたか」

 「あの筑前の山猿、あの山猿が姑息な手を!」





 8月24日

 立花宗茂、妻のァ千代が守る立花山城を取り囲んでいた島津忠長率いる島津西軍は、立花軍の巧妙な作戦の前に時間を浪費。結果、豊臣秀吉の命を受けた毛利軍3万の九州上陸を許してしまった。

 立花家家臣で降伏の使者・内田壱岐はその弁舌で「明日こそ降伏する」と言って島津軍を翻弄。更に立花宗茂は度々奇襲部隊で攻撃して相手の戦意をくじいた。

 「それで、内田壱岐を忠長殿はどうした」

 「・・・立派な家臣だと言って、解放したらしいです」

 「そうか」

 「斬ればよろしかったのです!忠長様も手ぬるい!」

 憤激する久春を尻目に、家久は軽く笑った。

 「大軍を相手に見事な勝ちを収めた立花宗茂。まさに九州随一の将といえよう」

 「それだけではありません!宗茂は撤退する忠長様を追撃し、多数の将兵を討ち取りました」

 「追撃か、では筑前で手に入れた宝満と岩屋の城も」

 口惜しそうに顔をしかめる久春。

 「奪還されました!」

 「城を守っていたのは秋月の兵か・・・他愛ないな」

 「家久様、毛利が九州に上陸したのは由々しき事態!我らはすぐに北上して豊後に討ち入るべきかと!」

 「待て、待て。毛利軍はまだ豊前(福岡県東部)だろう。忠長殿は戦力温存のために撤退しただけだ。我々が焦ることではない」

 「しかし、中国の毛利が出てきたことは確かです。このあと続々と関門海峡を渡る豊臣の軍団を迎え撃つためにも、豊後と豊前は押さえねば!」

 徹底的な攻撃論。どことなく今の兄達に似ていると、家久は思った。

 「兄も・・・」

 「はっ?」

 「殿も、義弘兄さんも、そう思うだろうか」

 「無論でございます。立花、大友を九州から駆逐し、豊臣と決戦する。これしか島津の生き残る道はござらん!」

 伊集院久春のこの意見。これこそが、この時代の島津家を反映するものであったと思う。

 顔を上気させて闘志をみなぎらせる久春。家久はただ、素直にそんな考えが出来る彼が羨ましかった。





 数日後

 『智将』の異名を持つ男・山田有信が日向に帰還した。有信は佐土原城に向かい、家久に謁見する。

 「大友家南郡衆との交渉が成功しました。遠からず彼らは島津の旗を上げるでしょう」

 「そうか、成功したか」

 「まさに万々歳、島津の未来は明るいですな」

 「うむ、そうだな」

 「これで肥後との連携が可能になります。豊後は今年中に陥落するかもしれません」

 「うむ、そうだな」

 「・・・・はぁ〜、もう少し喜んでくれても良いではありませんか?家久様」

 がっくりと肩を落とす有信。せっかく粉骨砕身して大友家の重鎮達を降伏させてきたのに、この力のない返事。

 「豊臣軍が関門海峡を渡り、更に四国からも援軍が来る予定らしい」

 「ほう、それは問題ですな」

 「どう思う」

 「どう、と言いますと?」

 「お前の意見で良い、島津家はこの状況を打破できると思うか?」

 「・・・・・さて、私ごとき考えでは」

 しばらく考える素振りを見せ、有信は家久を見つめる。

 「なるようになる、と言ったところですかね」

 おどけてそう答える有信に、家久はただ笑った。

 「くっ、はははは!なるようになるとは、お前らしいな有信」

 「笑いませ家久様、最近あなたは暗いでござるぞ、わはははは!」

 佐土原城は少しの間、楽しい笑いに包まれた。





 島津忠長が筑前から撤退したことにより、島津義久は戦略の変更を余儀なくされた。

 肥後(熊本県)の八代城で地図を広げ、時間をかけて義久は一人で考える。

 (まだ、打つ手はある。筑前は奪還されたが、まだ筑後は我らの物だ。再び筑前に兵を進めるもよし、思い切って豊後に攻め入るもよし。島津の取るべき道はまだ無数にある)

 必死に地図を睨む義久。たとえどんな事になっても、最後には全てうまくいくような気がする。今までだって、絶望的な状況は何度も経験した。

 (大友家、豊臣家、天下の軍団・・・ふん、いくらでも陸を上がって来るがいい。わしは決して負けん!!)

 九州、特に南九州は島津家の本拠地。土地も、人も、神も守ってくれる。義久は改めて豊臣家に対する戦意をみなぎらせた。

 そして義久のこの強さが、島津の将兵の強さに変わっていく。





 山田有信の活躍で大友家南郡衆が島津に降った。

 これで肥後と日向から豊後に攻め入れる。

 島津軍の実質的司令官・島津義弘は自身の戦略を義久と歳久に相談した。

 「兄者。筑前は奪還され、筑後の経営も危うい。ここは豊後に攻め入るのが上策ではないか?」

 「筑後はやはり、捨てるしかありませんか」

 島津歳久が残念そうに下を向く。島津家は戦には強いが、占領した土地を統治する能力はあまりない。しかも筑後(福岡県南部)にいる豪族や小勢力はまだ島津に降伏して日が浅い。形勢が豊臣家に傾けが、すぐに寝返ってしまうだろう。

 「筑前の、秋月種実殿は駄目ですか?」

 歳久が言う秋月種実は筑前の有力国人。人望も人脈もある。彼が筑後で勢力を保てば、筑前国を脅かし続けることも出来る。

 「いや、秋月殿は筑後の北部を守るので手一杯。加勢しようにも、筑前の立花宗茂は毛利軍と共に守りを固めている。とても手出しが出来ん」

 「ではやはり、豊後に直接攻撃を!」

 「うむ、俺が兵を率いて攻め上れば、いい戦いが出来ると思う」

 チラリと義久を見る義弘。全ては当主である義久の意見一つ。

 「どうだろう、兄者」

 義弘が指揮をする軍は、島津家のどんな将軍が率いる軍勢よりも強い。

 島津義久が率いる『隼人軍』も強いが、彼らは専守防衛に向いている。やはり攻めの軍団としては、島津義弘軍が一番だ。

 「・・・義弘、豊後に出陣しろ」

 頼もしい、そして期待していた答えが返ってくる。義弘は全身を震わさんばかりに感激した。

 「はっ!この義弘、兄者の期待を裏切りません!!」

 薩摩の武神。久々の出陣が決まった。





 豊臣軍先遣隊を率いる黒田官兵衛が筑前に到着。

 島津家久は山田有信、伊集院久春、息子の豊久を呼んで軍議を開いた。

 やはり豊後への攻撃を促す意見が大半だった。モタモタしていると、四国からも豊臣軍が到着してしまう。

 「南郡衆は寝返りの約束をしています。我らが北上すれば、豊後への入口は丸裸。梓峠(あずさとうげ)までは、無人の野を歩くが如く」

 久春の意見に、他の武将達も頷く。

 家久は迷っていた。本当に、豊臣家と全面戦争するしかないのか。仮にも『関白』となり、人身位を極めると称えられる英雄。その彼が指揮する無数の軍団と戦って、勝算はあるのか。

 しかし、そう思う一方で、家久の武人の血が騒ぐ。

 (天下に名高き豊臣秀吉。彼に島津の実力、見せ付けるのも一興か・・・・)





 天正十四年(1586年)10月

 島津東軍・総勢3万は日向から出陣した。

 目指すは豊後との国境、梓峠。





 同じ頃、豊前の高橋元種が毛利軍と戦闘状態に入ったことが島津に報告された。

 高橋は秋月種実の五男で、まだ15歳の若者である。豊前国で唯一島津家に味方する小勢力だが、宇留津城(うるつじょう)、馬ヶ岳城、香春岳城など、堅固な城を持っている。彼が豊前にいる限り、毛利軍は豊前から動けない。

 その隙を島津軍は突けばよい。





 だが、豊臣軍は手を緩めない。

 大友宗麟が立て篭もる豊後に、長宗我部元親、信親父子の軍勢3千。

 仙石秀久、十河存保(そごう まさやす)の軍勢3千。

 総勢6千の豊臣軍が大友家の援軍として到着。





 島津家VS豊臣家の、本格的な攻防が始まろうとしていた。



 第六十一章 完


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