戦国島津伝
第七十章 『いつかまた』
薄暗い森の中を、少年が走る。
「兄さ〜ん!」
どうやら兄を探しているようだ。左右をチョロチョロ見ながら走り続ける。
「あっ!兄さん!」
うっすらと見える背中。一人ではない。全部で三人の背中が確認できる。
「兄さ〜ん。待って〜」
背を向けながら歩き続ける兄達に、少年は無邪気な笑みを浮かべながら追いかけた。
「……うえ……」
佐土原城の一室。家久は蒲団で寝ていた。その彼の耳に、誰かの声が響く。
「……ち……うえ……」
うっすらと眼を開けると、豊久が覗き込んでいた。
「父上、いつまで寝ているのですか?」
「豊久か」
「もう昼過ぎですよ。大丈夫たる者が、情けない」
溜息を吐いて退出する豊久。父はそんな息子を蒲団から見つめた。
九州の覇者から一気にその領土を追われた島津家。当主を含め、大半の者が領地を減らされた。そんな中、逆に豊臣家の恩恵を受けて、領地が増えた者がいる。
まず一人は伊集院忠棟。自らの身を人質に出し、降伏した彼は、大隈国の肝属郡一帯を与えられた。約数万石の加増である。
もう一人は島津家久。忠棟同様、主家に先駆けて降伏した彼は、佐土原城周辺を有する独立した大名の地位が約束された。
その処遇をもっとも喜ばなかったのは、家久の息子である豊久だった。
「父は不義者である!私は不義者を父に持って恥ずかしい!」
豊久にとって、父家久は主家を裏切り、自分の保身を第一に考えた臆病者と映ったことだろう。その考えは今も変わってはいない。
最近はようやく普通に口を聞いてくれたが、昔のような親子の会話はもうない。
家久は蒲団から半身だけ身を起す。庭には蝶が舞っていた。
「蝶か……」
そういえば、自分は夢を見ていた気がする。どんな夢だったか、あまり思い出せない。
「誰か、豊久を呼べ」
「はい」
近くにいた下人が席を立つ。
しばらくして、しぶしぶといった感じで豊久が再び入ってきた。
「何ですか?」
「島津家の処遇は、どうなった。知っているのだろう?」
豊久は父を睨み付けた。何を今更、と思っているのだろう。
「殿は……薩摩、大隈、日向の諸県郡を安堵されました」
「……そうか、良かった」
カッとなりかける豊久。彼は叫びたかった。「そもそも父上が兄弟の絆、武士の誇りを貫いていれば、島津は豊臣ごときに負けなかった!!」その言葉を寸前で飲み込み、口を開く。
「天下の軍勢を相手にして一歩も退かなかった殿と伯父上達。あと少し耐え抜けば、豊臣は兵糧が尽き、島津が勝ったことでしょうね」
家久は表情を崩さない。
「……そうかもな」
「20万という大軍でありながら、秀吉は島津を滅ぼせず、和睦という形で決着した。これすなわち、薩摩隼人の武勇と忠義の賜物ですな。それに比べて我々は……」
島津家を褒めちぎり、自分の情けなさを嘆く豊久。家久は息子の気持ちがよく分かっていた。豊久は生粋の武将である。何が正義で、何が忠義かを幼いときから学び、信じきっている。息子の一途な成長が、父は嬉しかった。
豊久が去った後、今度は妻のふうが入ってきた。
「あなた、お体はどうですか?最近、蒲団からあまり起きてはこられないので」
「心配ない。ちょっとだるいだけだ」
ふうはいつまでも若い。家久はそう思った。始めて会ったときと、何も変わってはいない。
20年ほど前。家久18歳。ふう17歳。
「は、初めまして。樺山善久の娘、ふうです」
恥ずかしそうに顔を伏せ、必死に挨拶する少女。家久も顔を真っ赤にしながら自己紹介した。
「ああ、え〜と、島津貴久が四男。島津家久です。よろしく」
声をかけられて安心したのか、少女はニコリと微笑んだ。取り立てて美人でもないが、家久は愛しいと感じた。
二人のそんな様子に満足したように、家久の父貴久が笑う。
「はははは、お互い気に入ったようじゃな。良い夫婦になるであろう」
その言葉に、家久とふうは顔を赤くした。
それから数十年。家久の前に座るふうは、彼の眼から見ればいつまでも、あの頃の少女だ。
「豊久は何と言っていました?」
「ふふ、こってり絞られてしまったよ」
「ふふふ、あの子は根が真っ直ぐな子ですからね」
「……お前は何も聞かないのか?」
「私は家久様の妻。それ以上は何も望みません」
「……すまない」
家久は庭を指差した。
「ふう、あそこに蝶が舞っているのだ。見えるか?」
「え?……ああ、本当ですね。本当に綺麗な蝶」
夫婦はしばらく、ヒラヒラと舞う蝶を眺めていた。
蒲団から出て政務に励む家久だったが、すぐにまた睡魔が襲ってきた。
自分の胸を軽く摩り、蒲団の用意を下人に命じる。この見えぬ敵に逆らう気は起きなかった。暖かい蒲団に包まれながら、ゆっくりと眼を閉じる。
まだ10歳にも満たない少年が、母に甘える。
「母上、この本を読んでください」
「まあまあ、家久は甘えん坊ね」
家久から本を受け取った母は、そのタイトルに驚いた。
「げ、源氏物語……」
「義弘兄さんから貰いました。ためになると聞きました。読んでください」
愛想劇を書いた源氏物語。とても子供が読んでいい影響があるとは思えない。
「駄目よ、家久。これは子供にはまだ早いわ」
「ええ、どうしてですか!どうして読んでくださらないのですか!」
島津四兄弟で家久だけは母が違う。母の名は橋姫。何かと教育に熱心な人だった。
「ではどうして駄目なのか、教えてください」
「ええっと、つまり、それは……」
しどろもどろに話を誤魔化そうとする母に、家久は腹が立ってきた。
「もういいです。義久兄さんに読んでもらいます」
「あっ!待ちなさい、家久!」
結局、事情を知った義久は家久から本を取り上げ、義弘を叱った。
夜中、眼を覚ました家久は喉が渇いているのに気付いた。
フラフラと部屋から出て、城内の井戸に向かう。
井戸から水を引き上げ、手ですくって飲む。新鮮な冷水が喉を通り、家久はいい気持ちになった。
空を見上げると、無数の星が煌いていた。
この星を、兄達は見ているのだろうか。既に亡くなった父母も、見ているのだろうか。
翌朝
朝日が家久の顔を照らし、眼を覚ました。いったい自分はいつ寝たのか、記憶にない。
ただ最近、妙に昔を思い出す。しかも忘れていた良い思い出だけ。
中庭から棒を叩く音が聞える。家久は立ち上がり、中庭まで歩いた。
「まだまだ、もっと来い!」
硬い木の棒で家臣と稽古をする豊久。相手をしているのは、屈強な家臣ばかりだ。
「うおらああ!」
「でやあああ!」
誰も、豊久には敵わない。遠慮もあるだろうが、この息子は本当に強い。
「これは家久様。おはようございます」
稽古を中断し、家臣の一人が頭を下げる。豊久も手を止めたが、家久の方を振り向きはしない。
「強くなったな、豊久」
「別に……日頃の修練の結果です」
「どうだ、父と稽古してみるか?」
豊久は初めて振り向き、真っ向から父を睨んだ。
「いえ、止めておきましょう。父に怪我をさせたくはない」
「そうか、残念だ。傷は武将の誉れなのにな」
ピクッと体を硬直させる。家久の言葉は、いうなれば傷を付けてやろう、と言っているようなものだ。豊久の眼が見る見る血走っていく。
「分かりました。この豊久、父の胸をありがたくお借りします」
親子の稽古は、殺し合いに等しいものになった。もっとも殺す気なのは豊久だけだが。
木の棒が互いの体を打ち、双方一歩も退かない。家臣達はいきなり始まった対決にオロオロするだけだ。
「せやあああ!」
豊久の棒が家久の頭上から襲い掛かる。見事当れば、頭を砕いたかもしれない。だが家久は冷静に軌道を外し、逆に豊久の腹を打つ。
「うっ!」
苦しみながらも、横薙ぎに棒を一閃させる。家久は後ろに下がり、息子の利き腕を強打した。
あまりの痛さに棒を落とす豊久。
「うう……」
それでも、残った左腕で棒を掴み、すごい形相で向かってくる。
豊久は負けたくなかった。臆病者の父に。裏切り者の父に。
最後の瞬間、豊久の体は地面に転がった。
「かっ……はっ……」
家久は木の棒を置き、豊久を抱き上げて介抱した。
「大丈夫か?」
「うう、触るな。触るな」
もがいて抵抗しようとするが、全身の痛みに顔をしかめる。
「貴様なんかに、負けるわけが、ない」
遂には父親を『貴様』扱い。家久は軽く笑った。
「そうか、私は随分嫌われたな」
「ちくしょう、ちくしょう」
家臣達に手伝わせ、縁側に豊久を寝かせる。
「もうよい。お前達は下がれ」
「は、はい」
縁側で二人っきりの親子。あお向けに倒れる豊久のすぐ前に、家久の背中がある。距離は近いのに、心の距離はどこまでも遠い。
「…………」
「…………」
家久は中庭を見つめ、豊久は父の背中を睨み続けた。やがて。
「お前は、この父が憎いか?」
豊久は体を動かさず、答える。
「ええ、憎いですよ。あなたが降伏しなければ、島津はきっと豊臣に勝っていた」
「…………」
「最後まで兄弟の、武士の忠義を貫き通して死ぬ。それが薩摩隼人ではなかったのですか!私はこの先一生、あなたを憎み続ける」
そこまで言った後、豊久は悔しそうに顔を背けた。どんなに罵倒し、非難しても、自分とこの男は親子なのだ。憎んでも、恨んでも、情けなくても、自分はこの父親が好きだ。子供の頃からずっと尊敬し、人生の手本としてきた師匠だ。たとえどんなに失望しても、自分はこの父親の元から離れたくはない。甘えん坊なのだ。
そんな思いが、豊久の心をかき乱す。武士としての自分も、息子としての自分も捨てられない。情けなかった。
家久は何も言わない。後ろで豊久が悔し涙を浮かべていても、彼はじっと中庭を見て、あることを思い出していた。
(そういえば、初めて豊久が生まれたときも、私は縁側に座っていたな)
17年前。
薩摩にある家久邸は上も下もまるで天変地異が来たように慌しかった。
家久の妻であるふうが突然産気づいたのだ。
「ふうの容態は?」
「すみません、急ぎますので!」
足早に去る侍女。23歳の若い家久は気が気でない。
「ぬ〜、あ〜、う〜」
心細げに廊下を往来する。見かねた老臣が声をかけた。
「家久様、ここは宰相の姉君に加勢していただくというのはいかがでしょう?」
『宰相の姉君』とは、この場合島津義弘の妻、実窓院を指す。
「うむ、そうだな。姉上に来てもらおう!」
早速、家久は早馬を飛ばして義弘邸に急を告げた。報告を受けた義弘……というよりも妻の実窓院は、まるで戦に出かける武者のように素早く用意を済ませて城を飛び出した。
更に彼女は他の奥方達にも加勢を頼み、家久邸には実窓院、義久の妻とき、歳久の妻つづみが参上する事態に発展した。
屋敷に到着した彼女達は精力的に動き回り、何となく付いてきた夫達は縁側に腰掛けた。
家久の右側に義弘。左側に歳久が座る。
「助かりました。兄さん達が来てくれなければ、私だけではどうしようも」
「俺達に礼を言うのはおかど違いだぞ、家久」
「その通り。礼は妻達に言わねば」
二人の兄達の存在が、家久の緊張をわずかに解きほぐす。安心させる。
だがその時、縁側の門から実窓院がひょっこりと顔を出した。彼女の顔は見る見る怒りに染まり、そのまま駆け寄ってきた。
「こいつ!」
拳で義弘、歳久の後頭部を殴る実窓院。小気味の良い音が響き渡る。
「この忙しい時に何を休んでいるのですか!」
義弘は後頭部を摩りながら。
「見たか家久!これが我が家の宰相よ!」
「早よぅ行けぃ!!」
引っ立てられる二人を見て、家久が慌てて立ち上がる。
「わ、私も何か手伝いを」
実窓院は両手を家久の肩に当て、そのまま座らせた。
「あなたはここに座ってなさい。夫が妻のお産に立ち会うと、ろくなことがない」
去っていく実窓院。家久は縁側で、祈るしかなかった。
あれから17年。
難産の末に産まれた息子。元気にたくましく育ち、色んなことを教え、学ばせ、共に成長してきた。
だが今、息子は自分に背を向けている。
「…………」
家久は立ち上がった。
たとえ豊久が生涯ずっと、背を向け続けても構わない。兄弟の絆が家久にとって永遠であるように、息子との絆も、永遠なのだ。
家久は無言で、部屋に戻っていった。
夜
ふうは縁側で酒を飲んでいる夫を見つけた。
「あら、家久様。こんな時間にお一人でお酒ですか?」
「お前もどうだ?一杯」
「そうですね、頂きます」
家久から盃を受け取り、ゆっくりと味わうように飲み干す。
「最近、寝てばかりだから、心配していたんですよ」
「うむ、確かにそうだな。私も夢ばかり見ている」
「夢を?どんな夢ですか」
月を見上げる家久。空には見事な満月が輝いている。
「母の夢、兄達の夢、お前の夢、豊久の夢……まるで自分の人生を振り返っているようだ」
「…………」
ふうは感じた。このまま家久がどこかに行ってしまうような、予感を。
家久は無言で酒を飲み続ける。
「家久様」
「ん?」
「…………」
「どうした?」
「家久様は、どこにも行きませんよね?ずっと、私と豊久の側に居ますよね?」
泣きそうな声で迫るふうを見て、家久は優しく微笑んだ。
「ああ、私はどこにも行かないよ」
「本当の本当に?」
「ああ、本当だ」
妻は一応安心したのか、屈託のない笑みで話し続ける。家久は相槌を打ちながら、何気なく再び空を見上げた。すると、満月が雲に隠れ、辺りが一瞬暗くなった。
その一瞬の間、家久の側に何かが近づいた。人間でも、動物でも、妖怪でもないもの。家久はその不可思議な『物』に、言い様の無い懐かしさを感じた。
恐怖はない。未練もない。ただ、少し残念だ。
(ふう、すまない。約束は守れそうにない。……義久兄さん、義弘兄さん、歳久兄さん、豊久……)
いつか、また会おう。
雲が抜けて、満月が姿を見せたとき、家久は口元に笑みを浮かべながら寝ていた。とても安らかな、寝顔だった。
少年が兄達の背を追って走る。だけどなかなか追いつけない。
そのとき、声が聞えた。自分を呼ぶ声。
「あっ、父上、母上!」
振り返ると、薄暗い森の向こう側は光っていて、中に二人の人物が見える。少年は無邪気な笑顔で二人に抱きついた。
島津家久 享年40歳
その死因は現在も分かってはいない。
第七十章 完
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