戦国島津伝
第七十八章 『次期当主』
長く、綺麗な廊下を二人の人物が歩く。
一人は整った顔に冷徹な瞳を持つ島津忠恒。もう一人は美しい黒髪を後ろに束ねた侍女の美影。
「いかがでした?」
「なにがだ」
「この国の王は」
「別に、想像通りの老人だったよ」
たったいま、忠恒は太閤秀吉に謁見。ある重要なことを仰せつかった。
「用件は何だったのですか?」
「……なんだと思う」
「質問を質問で返されても、困ります」
「島津をくれるそうだ。この俺に」
後ろの美影を振り返った忠恒の顔は、どこまでも冷たく、暗かった。
次期島津家当主となる予定だった島津久保の急死は、家中に多大な混乱をもたらした。
久保の義父であり、現当主龍伯は気力が抜け、その混乱を収束する打開策を見出せずにいた。そこに家老の伊集院忠棟が話を持ち込んだ。
「私に良い策がございます」
「策?」
心労と老いですっかり元気を無くした龍伯は、気だるそうに忠棟の方を向く。
「現在、久保様に代わる後継者はただ一人。年齢、血筋、文武の才、どれをとっても忠恒様以外にはございません」
「忠恒か……だが、家中の者達が納得するか?」
「そこで、忠恒様と亀寿姫様を婚約させるのです」
「なに!?亀寿を!」
「殿の直系である亀寿姫様を忠恒様と婚約させれば、誰もが忠恒様を正統後継者だと認めるでしょう」
「亀寿を忠恒にか」
龍伯の顔が曇る。亀寿は昔から従兄弟である忠恒のことを良く思っていない。だが忠棟の言うとおり、現在島津の若君達の中で久保に代わる適任者はその弟である忠恒だけだ。
「これは、豊臣家からのご配慮でもあります」
「豊臣家が!?」
豊臣家が島津家の後継者問題に関与する。恐らく忠恒を当主に立て、その恩で後々の島津家を操ろうとする魂胆か。
龍伯は秀吉の思惑を見抜いた。だがどうしようもない。
「豊臣家からの配慮、か。わかった……忠棟に、任す」
「ありがとうございます。この忠棟にお任せあれ!」
忠棟の顔は喜色満面。一方の龍伯は、最後まで顔を曇らせていた。
(許せよ、亀寿)
大坂に到着した忠棟は、事の詳細を忠恒に報告する。
「既にお聞きになっているとおり、忠恒様が次期島津家当主です」
「そうか」
忠恒の部屋には美影、忠棟の二人。美影にお酌をさせながら、忠恒は頬杖を突いている。その表情は、何も映してはいない。喜びも、悲しみも。
その表情を見ながら、前に座る忠棟はためらいながら言葉を発する。
「ただ……」
「どうした?」
「次期当主の証として、龍伯様のご息女、亀寿姫様と婚約していただきます」
ピクっと反応したのは、美影だった。忠恒は相変わらず、表情一つ崩さない。
「亀寿姫は、亡き兄上の妻だぞ」
「ですが今は未亡人。しかも歳はまだまだお若く、なんら問題はないと思います」
(兄上……余計なものを残しすぎだぞ)
「忠棟に任す」
「はっ!忠恒様が次期当主ならば、島津も安泰でございましょう」
「お前も今回の件で、随分豊臣家からの覚えがめでたくなったろうな」
「な、なにを言われます!」
「はっはっはっ。冗談だ、冗談。はっはっはっ」
数日後
大坂の屋敷で島津忠恒と亀寿姫との婚儀はつつがなく行われた。
家臣一同が笑って祝福する中、新婦の亀寿の顔に笑顔はなかった。それは、今日のために上洛した父龍伯も同じだった。
「え〜ん、忠恒〜」
「泣いたってしょうがないでしょう、おたかさん」
屋敷の隅ではおたかが泣き、おみちが必死に慰めていた。
「だって俺の初恋だったんだよ〜」
「大名のご子息に初恋……ある意味すごいですね」
「これから何を楽しみに生きていきゃあいいんだよ〜」
「まあ、そう深刻に考えずに」
「うるさい連中ですね」
背後からの声に二人が振り向くと、美影が立っていた。
「あっ、てめぇ!何しに来た!」
「山猿がキーキーうるさいから、声をかけただけですよ」
「キーっ!誰が山猿じゃい!」
「まあまあ、おたかさん抑えて」
美影は二人の側に座り、夜空を見上げる。
「いいですね、あなた達は」
「「えっ!?」」
「何の考えもなく、ただ目の前の現実だけを見ていられるから」
「て、てめぇ、それはどういう意味だよ!」
「忠恒様が本当にこの結果を望んでいたと思うのですか?」
「この結果って…………姫様との婚約か?」
「全て。久保様が亡くなり、今日までの結果です。姫様との婚儀、次期島津家当主の座……全て、忠恒様にとっては不要なもの」
「じゃあ、断ればよかったじゃんよ」
いつの間にか、おたかもおみちも美影の隣に腰掛け、話を聞いている。今日の美影は、今までの彼女と、どこか違う。表情は普段どおりだが、どことなく寂しそうだ。
「お家や、政治の問題など、あなた方にはわからないでしょうね」
「なっ、なんだと〜。じゃあてめぇは知ってるのかよ!」
しばしの沈黙。美影は星空を見ながら、言った。
「私は、元は土持家の人間でした」
「土持?はて、どこだっけ」
「土持……って、日向北部の名家じゃないですか!」
おみちが驚いて声を上げる。
土持(つちもち)氏は、平安時代から続いた名族。日向国北部に確固たる勢力を持ち、北は大友家、南は伊東家と微妙な外交バランスを保ちながら生き延びた。だが伊東家が島津家によって日向を追放されると、土持氏は島津家と盟を結んだ。これに激怒した北の大友家が大軍で殺到し、土持氏は滅んだのである。ちなみに大友家はその数ヵ月後、耳川の合戦で島津に大敗することになる。
「へ〜、……てことはお前まさか……お姫様だったのか?」
「…………」
「忠恒といったいどこで出会ったんだよ?」
「……ご想像にお任せします」
「お前な〜、そこまで話しておきながら」
「ただ一つ、言えることは。私は忠恒様の為に存在しているということ。あの方がこれから先、どのように変わろうとも、私はお仕えする。地獄までも」
その言葉の内に秘めた迫力に、おたかもおみちも絶句した。
やはりこの女は、自分達と同じ、いやそれ以上の想いを、忠恒に抱いている。
おたかは横から美影をじっと見つめ。
「忠恒が、お姫様と夫婦になってもか?」
「ええ」
「忠恒が全然お前のことを気にかけなくなってもか?」
「ええ」
立ち上がると、おたかは威勢良く言った。
「なら、俺も負けねぇ!忠恒に付いていくぜ!どうせ他に行く所もないしな!」
「どうぞご勝手に」
それだけ言うと、美影は立ち上がり、廊下を歩き出した。しかし数歩歩くと、振り向いた。
「忠恒様にお仕えするのはご勝手ですけど、己の身分を越えた態度は改めなさい。見ていて不愉快です」
「なんだと〜!あっ、そうだ。お前この前おみちの手をわざと踏みつけただろう!謝れよ!」
「おたかさん、私は別に」
「下女風情が馬鹿馬鹿しいやり方であの方の気を引こうとしたので、少し気に障っただけですよ」
「わ、わざとじゃありません!」
「どうであれ、改めなさい。いつまでもあの方が大目に見てくれるとは限りませんよ」
普段どおりの冷たい視線で言い放つと、彼女は今度こそその場を去った。
「あの野郎〜。何なんだよ、突然現れて!」
怒り心頭で地団太を踏むおたか。おみちはそんな事より、今夜彼女が見せてくれた意外な態度が不思議だった。それから、あの寂しそうな横顔も。
(やっぱり、美影さんも、今夜の祝言を……)
忠恒と亀寿が婚儀を済まし、島津家の次期当主問題は決着した。だがそれとほぼ同時に、伊集院忠棟は次の政略を進めていた。
島津家領内の石高を測量し、地域の一定化を測る政策。いわゆる「太閤検地」である。
今まで島津家は周辺豪族に対する配慮から、秀吉の全国規模で行われたこの政策に消極的だった。そこを忠棟は、島津家家老という権利を行使し、更に朝鮮に渡っている義弘から了解も取り付けていた。
忠棟は豊臣政権に掛け合い、秀吉の重鎮石田三成を動かすことに成功。三成をわざわざ薩摩に招いて検地を実行させた。もはや龍伯に、止めるすべは無かった。
検地の結果、島津家の石高は以下の通り。
島津龍伯 大隈国10万石
島津義弘 薩摩国10万石
伊集院忠棟 8万石
寺社領 3千石
その他の家臣団の合計 14万石
龍伯はこの結果に驚き、そして愕然となった。自分と弟義弘の石高は同じ。しかも自分の領地が薩摩国から大隈国に移転されている。更に家臣である伊集院忠棟の石高は8万石。ほぼ主君の自分や義弘に匹敵している。更に更に、この検地結果の朱印状(土地の領有権に関する承認状)の宛先は九州征伐時と同じで義弘となっていた。これは、豊臣政権が島津家の現当主は自分ではなく、義弘だと言っているようなものだ。
龍伯は怒りよりも、残っていた全ての気力が失せた。
秀吉のせいで九州統一の夢は砕け、家久を失い、歳久を失い、大事な故郷まで追われる……。
それから数日後、島津忠恒は朝鮮に渡った。
龍伯は心の底から無事を祈った。これ以上身内の死には直面したくない。亀寿をまた未亡人にしたくなかった。
「忠恒、生きて戻れ。わしの命令だ」
老いた君主は忠恒の片手を取りながら、精一杯の激励をした。
忠恒は冷ややかに握られた手を見ながら
「島津の名に恥じぬ活躍を」
と言った。
朝鮮の島津家の拠点である巨済島に着いた忠恒を出迎えたのは、慣れぬ土地で苦労し、久保の死で精神的に疲弊した兵と家臣達。そして、実父の島津義弘だった。
薩摩から自分の補佐役に付いてきた老臣3人が島津本営に案内する。忠恒は堂々と歩き、兵や家臣を見渡して鋭く睨みつけた。その厳しい視線に、思わず姿勢を正す一同。
本営に入った忠恒は、まず実父義弘の疲れ果てた姿に驚いた。弟歳久を梅北一揆で亡くし、見知らぬ朝鮮の土地で最愛の息子も失った。ただの哀れな老人の姿がそこにあった。
(これが、あの父上か)
体に衰えは無い。戦場で鍛えに鍛えた肉体は筋肉質で、とても60歳とは思えない。だが顔の皴は増え、精神的ショックからか生気がない。
(なまじ体が鍛えられているだけに、滑稽だな)
義弘は忠恒を顔だけ動かして見た。
「忠恒……お前まで、死にに来たのか」
「父上、なんですか、その姿は」
「わしは疲れた。もうここに骨を埋めようと思う。戦場で槍を振るい、十分に生きた」
(これは深刻だな)
忠恒は周囲を見渡した。本営には義弘の他に、島津忠長、長寿院盛淳、種子島久時などの武将達が居並んでいる。みんながみんな、まるで元気が無い。原因は朝鮮出兵自体に対する不満。相次ぐ領内の事件。そして久保の急死だ。
義弘はせっかく息子が来たのに、そのまま顔を伏せ、深い溜息を吐いた。
(…………仕方ない。このままでは他の大名家にも面目が立たん)
忠恒は持っていた脇差を引き抜くと、それを義弘の目の前に置いた。
「なんだ?」
「父上、そんなに死にたいのなら、今ここで腹を斬ればよい。もしくはさっさと船に乗り、国に帰って余生を送りなさい」
「なに!」
ガタッと音をたて、義弘は立ち上がった。忠恒は怯まず、言葉を続ける。
「どちらも断るなら、せめて武士らしく、与えられた責務を果たすべきでしょう!いつまでも子供のように、ウジウジと落胆していては、他の大名、将兵の士気にも関わる!何ならこの忠恒が代わりに軍を率い、今すぐ最前線に向かっても構いませぬぞ!」
その迫力、堂々とした態度に、義弘も武将達も我に返った。
「私は情けない!家名に恥じぬ活躍をと龍伯様に約束して陣中に来てみれば、この体たらく。おのれら、それでも薩摩隼人かっ!!」
「忠恒…………もうよい。わかった」
義弘は静かに、だがはっきりと頷いた。
「お前の言うとおり。わしにはまだまだ、やらねばならぬことがある。我が島津の武勇と覇気を天下の大名に見せつけ、あの世の久保の土産話にしてくれる!」
義弘は槍を手に本営から外に出た。
「皆、この島津義弘。今日から新たな気持ちで責務を果たす。お前達も今までどおり、付いてきてくれ!」
兵達、家臣一同、顔に元気が蘇った。やっと自分達が信頼する大将が奮い立ってくれたのだ。同時に忠恒も、彼らの信頼を勝ち取った。
(まだ19歳の若輩なのに、ご立派なお人だ)
島津の将兵が興味津々な眼で忠恒を見る。
(まあ、最初はこんなものか)
忠恒は心の中で微笑した。
第七十八章 完
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