戦国島津伝
第七十九章 『三人の君主』
朝鮮出兵、刀狩、太閤検地…………天下人豊臣秀吉が行う政策に日本中が困惑するなか、薩摩の島津家では青少年の風紀悪化が騒がれていた。秀吉に対する不満や、他国と比べて武士の数が多いのも原因だった。
島津家家老の新納忠元、山田有信、平田光宗などが中心になって国内の教育制度改革に乗り出した。
「やはり武士道を重んじなければ」
「上官の言葉に絶対服従でなければ、軍の統制も取れぬ」
「心身ともに健康でなければ、立派な男子とは言えん」
重鎮がそれぞれ話し合い。島津家の武士階級の青少年に新たな教育法が制定された。その名も郷中(ごうじゅう)。またの名を『郷中教育』。
義を実践せよ
嘘を言うな
弱い者をいじめるな
負けるな
議を言うな
などの教育精神を叩き込むのだ。
小稚児(こちご 6〜10歳)
長稚児(おせちご、11〜15歳)
二才(にせ、15〜25歳)
長老(おせんし、妻帯した先輩)
の4つのグループに子供達は編成され、それぞれ頭を作ってグループ内の生活を監督し、その責任を負った。
後にこの制度で鍛えられた青少年が、明治期の薩摩武士の原動力になっていく。
文禄4年(1595年)
『文禄の役』と呼ばれた戦争は、日本と明、朝鮮との間で和平交渉が行われ、結果的に休戦となった。
各地で戦っていた大名も軍勢を連れて帰国。輸送や後詰部隊としてそれなりに忙しかった島津軍も、総大将の島津義弘、息子の島津忠恒を含め、全員が帰国できた。
だが帰国した義弘を待っていたのは、家臣達の冷ややかな目線だった。義弘と筆頭家老の伊集院忠棟が推し進めた太閤検地で多くの家臣が領地を移封され、しかもその中で忠棟だけが8万石という大幅の加増を受けた。
更に義弘は自分と兄の領地が交換されたことにも驚いた。代々島津氏の本拠地だった薩摩には自分が入り、逆に今まで直轄地だった大隈には兄龍伯が入る。そのことを認める朱印状も、秀吉との戦争後と同じく、宛先が自分になっている。本来なら君主の龍伯に渡されるべき物が……。
事実上豊臣政権は龍伯ではなく、自分を島津家の君主に押し立てたのだ。これは、当の義弘本人にはまったく寝耳に水だった。
周囲から白い眼で見られ、兄の龍伯は何も言わず、薩摩と大隈の国境付近に自分の居城を築いて既に移り住んでいた(富隈城)。生涯を戦場で過ごした義弘には、どうすれば良いのかわからなくなった。このまま自分が薩摩に入れば、兄から国を奪った弟と思われる。頼れる妻の実窓院は大阪の屋敷。
頭を抱える義弘に、息子の忠恒が近付いた。
「父上、何をお迷いか?」
「忠恒……政治とは、なぜこうも嫌なものなのだ。豊臣家に歩み寄る事が、島津の生き残る道と信じてきた。だが、その為に多くの者達が辛い思いをしている。わしは、どうすれば良いのか」
遂に頭を抱えてしまった父に、息子は側に座って諭す。
「確かに、このまま父上が龍伯様を差し置いて薩摩に入れば、世間は非難するかもしれません。ならば、この忠恒が薩摩に入りましょう」
「……なに?お前が?」
「この忠恒は兄が死んだ時から、島津の家を背負って立つ覚悟は出来ております。まだまだ至らぬことはありますが、逆に若輩者だからこそ、他の家臣達も納得するのではありませんか?」
「…………」
義弘はジッと目の前の息子を見つめた。老父の眼には、息子が大きく、逞しくなったとしか、見えなかった。
確かにこのまま自分が薩摩に入国するより、次期当主の忠恒の方が何かと都合が良いかもしれない。
義弘は決意した。
次の日。
富隈城に移った龍伯の下に義弘から書状が届いた。
側近の伊集院久治が何事かと隣から様子をうかがう。
「何と言ってきたのですか?義弘様は」
「薩摩の内城には自分ではなく、息子の忠恒が入ることを許して欲しいと書いてある」
「若殿を内城に……義弘様もどうやら周りの眼が怖いようですな」
「…………」
龍伯の脳裏に、若さ溢れる娘婿の姿が映る。整った顔立ちに、優雅な物腰。中でも一番気に入っているのが、あの眼。冷たく、危険な感じの忠恒の眼が、龍伯の心に鮮明に焼き付いている。
人間の本質は、積み重ねる経験や学問で変わったり、備わったりするものではない。
忠恒には底知れぬ何かがある。龍伯はそれを見抜いていた。
「あの婿殿に、薩摩を任せてみるか」
「宝物はどうしますか?」
島津龍伯の手元には代々島津家当主が受け継いできた宝物がある。これを持っている限り、現在の島津家当主は龍伯だ。
「忠恒はまだ若い。まずは国許をしっかりまとめる手腕を見てからでも、遅くはあるまい」
「御意」
こうして忠恒は薩摩の内城に、義弘は大隈の帖佐に移り住んだ。
龍伯の富隈、義弘の帖佐、忠恒の内城(鹿児島)。桜島を囲むように三人の島津家代表が並び立つことになった。
士は自分を知る者のために死す。
だから人を束ねる者、すなわち君主は部下に対し、興味と共感を得なければならない。島津忠恒はそう思っていた。
目の前に平伏する島津家の家臣達。
彼らは自らの意思で自分に従っているわけではない。義父・龍伯から「婿を支えてくれ」という要請を受けてこの内城に留まっているのだ。大部分は未だに龍伯、もしくは義弘こそ自分の主君だと思っているだろう。
それは分かっている。
だから……。
「お前達、此度の朝鮮出陣の件……ご苦労だった」
「なにを言われます。若殿も我々と苦楽を共にしたではありませんか」
島津忠長が嬉しそうに顔を上げる。
「朝鮮の戦いは、辛く、苦しい経験だったと思う。いつ敵に襲われるか分からぬ状況にも度々あった。それでも、私はお前達と帰ってこられた。何よりも嬉しく思う。そして同時に、驚いてもいる」
「驚く?」
「国に帰ってみたら、我が愛する民と、お前達の領地が好き勝手に荒らされていたからだ」
「「「!」」」
全員が驚き、絶句した。忠恒の言っていることは秀吉が行った『太閤検地』のことだ。
「若……そのことは」
「別に構わん。この場に私の発言を上の者に知らせる輩(やから)は居ないと信じているからだ。だから私は、言いたいことを言うぞ」
家臣達が顔を見合わせる。まさかこの内城の新城主祝言の席でこのような発言が飛び出すとは思わなかったからだ。
「私はなぜ自分がもっと早く生まれてこなかったかと悔しい。出来うるなら、先の大戦でお前達と共に戦いたかった。たとえ泥にまみれて死のうとも、今のように領地を他人に荒らされ、一部の家臣の私腹を肥やすさまを見ずに済んだだろう」
またまた家臣達は驚いた。忠恒は伊集院忠棟のことに付いても言っているのだ。
太閤検地で多くの家臣が領地を変更され、有力な豪族達はその力を削がれた。その中で、検地を豊臣側に立って推し進めた島津家家臣・伊集院忠棟だけは8万石という大加増を受け、君主である龍伯に匹敵する実力を持った。
他の家臣達から見れば、一人勝ちのようなもので、面白いわけがなかった。
「もしその家臣がこの場に居れば、私はこのような本音は言えなかっただろう。叔父達を亡くし、自身の立場すら分からないこの現状。悔しく、情けない……」
次第に居合わせた家臣達は忠恒に同情し、共感してきた。特に伊集院一族に領地の庄内(都城)を取られた北郷一雲斎(時久)と息子の忠虎はもらい泣きすらしている。
伊集院忠棟、息子の忠真はこの場にいない。それは幸運だったのか、不幸だったのか。
場の空気を変えようと、山田有信が口を開く。
「ま、まあまあ若。せっかくの席ですので、そのような話はもうここらで」
「うむ、そうだな。こんな話はこの場に相応しくない。今日は永年島津に仕えてくれた皆のために酒を用意したのだ。私はまだまだ酒の味が分からぬゆえ、しっかりと教えて欲しい。だれぞ酒の強い者はおらぬか」
次々と運ばれる酒。場は一気に陽気な空気に変わったが、家臣一同の心の中に「忠恒様は素直で優しい方だ」という印象が芽生えた。
君主は部下を理解し、常に正義でなくてはならない。
(正義がいれば、悪が必要になる。忠棟……お前は存分に悪役になってもらうぞ)
その日、家臣達はなかなか忠恒の側から離れなかった。皆もっと知りたいと思ったのが、この若者を。
帖佐城
島津義弘は壊れた自分の愛用の筆を持って溜息をついた。
「しまった……買い換えるのを忘れていた」
義弘は手紙を書くのが好きな男。特に自分の妻・実窓院に当てた手紙は何通にも及ぶ。
家族のこと、周辺のこと、健康のこと、自分や相手のこと、愛していること……。
それらを恥ずかしがることもなく手紙で出しまくるので、義弘の筆はその量と彼の筆圧で直ぐに壊れてしまうのだ。
「う〜む。まずいな」
奮発して筆を買うべきか。しかし妻からは「無駄遣いをするな!」と怒られた経験がある。困った。非常に困った。
武神、鬼、生きる戦国、とあだ名が多い島津義弘だが、もはや70歳という高齢になってしまった彼の悩みは、妻に黙って筆を買うかそれとも説得するかのどちらかしかない。
明日は明日の風が吹く。それが義弘の生き方。
富隈城
南北250m、東西150m、高さ30m、周囲には堀を備えた平城が島津龍伯の新たな屋敷であり、城だ。従来の島津家の城に対する考え方を体現するかのような、見事に簡素な作りの屋敷である。
龍伯の側近達が周囲を書いた地図を持ってきた。
「どのような城下町にしましょうか」
「そうだな、付近の港に商人を呼び、市を多く建てさせよう」
体中に老いの傾向が見られるが、地図を見ながら指示を出す龍伯の顔には久し振りに活気が満ちている。豊臣政権によって半強制的に隠居させられた身分だが、せめてこの城下だけは他よりも発展させたい。龍伯の唯一の楽しみだった。
島津龍伯、義弘、忠恒。
並び立つ英雄…………島津よどこへ行く。
第七十九章 完
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