戦国島津伝




 第八十二章 『鬼達の宴』

 慶長四年(1599年)。

 一つの時代が終わり、新たな時代がやって来る。

 太閤豊臣秀吉の死後、残されたのは幼い息子秀頼、そして……関東の徳川家康。

 家康は秀吉が禁じた大名同士の婚姻と加増を無断で推し進め、加賀の前田利家と対立。天下に再び暗雲が立ち込めようとしていた。





 その頃、薩摩の島津家は…………。

 現在の鹿児島市吉野町。そこに僧侶達が集まり、熱心に念仏を唱えている。彼らを暖かい眼で見つめるのが、島津家当主の島津龍伯(義久)。

 たったいまこの土地に、弟・島津歳久の菩提寺を建立したばかりなのだ。歳久はかつて秀吉の怒りを受けて切腹させられ、その首と胴体を別々の場所に送られていた。それを秀吉の死後、龍伯が回収してこの吉野町の歳久最期の地に菩提寺を立てたのだ。

 (安らかに眠れ、歳久。なにわしもすぐに逝くよ)

 もう天下のことなどどうでもいい。このまま静かに暮らしたい。それが龍伯の気持ちだった。





 大坂の島津義弘。

 義弘は大阪の屋敷で天下動乱の気配を感じながらも、自ら結局的に動くことはなかった。

 (こういうときは、無闇に動かぬほうがよい。いずれきっと、わしの最後の舞台を天は用意してくれるはず)

 鬼と恐れられる老将は静かに、それでいて内に激しい闘志を隠しながら、息を潜めていた。





 薩摩の龍伯、大坂の義弘が諦観を決め込む中、一人の若武者はゆっくりと、確実に動いていた。

 伏見の島津忠恒。

 朝鮮から帰った忠恒は、屋敷に多くの娘達を住まわせた。みんな出自、経歴、家族など一切不明だが、彼女達には共通点があった。

 男に媚びず、仕事ができ、忠恒に忠実であること。

 忠恒は彼女達に学問を、あるいは武術を仕込み、忠恒直属の侍女集団はさながら一つの秘密組織となった。これこそ、忠恒が目指した理想。

 なぜなら、忠恒は日頃から男という生き物が嫌いだったのだ(ただし自分を除いて)。

 (単細胞で、わがままで、融通が効かない愚かな生き物。彼らを用いるくらいなら、まだ女を用いたほうがよい)

 忠恒は自分だけの優秀な組織を作るために、方々から女性を連れてきた。

 その結果、彼の周囲には一癖も二癖もある女性達が揃った。





 「てめぇな!もうちょっと力はいらねぇのかよ!」

 「ひっ、ひひひ」

 伏見の忠恒屋敷の台所で、おたかが厳しく叱責している。相手は忠恒が連れてきた娘の一人で、名前は霧子。普段は大人しいが、一度感情が高ぶると気違いのようになる。

 「皿洗いくらいちゃんとやれよ。まったく」

 「そこ、うるさいですよ」

 今度はおたかが美影に注意される。彼女は忠恒の屋敷で働く女達のまとめ役だ。

 「いやあたしだってうるさく言いたかないんだけどさ〜。こいつが笑ってばかりで仕事が進まないんだよ」

 「くっはっはっはっ」

 「……まったく」





 付近で掃除をしていたおみちは、そんな三人のやり取りを微笑ましく見つめる。彼女は最近の屋敷の賑やかさが好きだった。しかも主人の忠恒は朝鮮から帰ってきてから落ち着きができ、物静かな男になった。一緒に成長してきたおみちは、どこか子供の成長を喜ぶ母親のような心境だ。

 (やはり将来殿様になるのだから、いつまでも子供のようではいけませんよね)

 そこに、忠恒直属の侍女の一人・おげんがやってきた。

 「美影殿、忠恒様がお呼びです」

 「わかりました」

 おげんは片目を布で隠している。噂では幼い頃、養父に殴られた為に失明したそうだ。その後どういう経由で忠恒に出会ったか謎だが、よく他の侍女達との橋渡し役をしている。

 「ちょっと待てよ、美影。こっちの仕事は?」

 現場から外れて忠恒の部屋に行ける美影に不満を漏らすおたか。霧子はまだケタケタ笑っている。

 「あなた達でやってください。それくらい」

 「そ、それくらい!?てめぇ皿洗いをなめんなよ!」

 「ひひひ」

 「てめぇもケタケタうるせぇんだよ!」

 「まあまあおたかさん。私も手伝いますから」





 人の運命はどこで決まるのか。もしかしたら、自分の運命は他の誰かの為に決してしまうものなのかもしれない。

 「忠恒様、参りました」

 おげんの言葉に続いて、美影がそっと忠恒の部屋に入る。

 「美影です。何か?」

 「…………」

 薄暗い部屋の中、美影を見た忠恒の瞳は、例えようのないほど…………不気味だった。





 (そうだ、お茶を持っていこう)

 おみちは自分の仕事が片付いたので、おたかと霧子を残し、お茶を持って忠恒の部屋に向かった。

 もし彼女が、お茶を持って行かなかったら。もし忠恒がこのとき、大事な話をしていなかったら。彼女と、そしてもう一人の人物の運命は、変わっていたかもしれない。





 (思えば……私はお茶をよく落として、忠恒様に笑われていたな)

 おみちは忠恒の部屋の前に立った。障子を開けようと手を伸ばした。その時、部屋の中から聞えてきたのは…………。





 「伊集院忠棟を殺す」





 誰が何を言ったのか。何のことを言っているのか、おみちには分からなかった。ただ、「殺す」という単語だけが、おみちの耳に残った。この屋敷で、忠恒と働く女達の笑い声しか聞えなかったこの屋敷で、初めて聞く言葉。

 彼女は盆ごと、茶碗を落とした。





 障子が開かれ、おげんと美影、そして忠恒が出て来る。おみちは反射的に割れたお茶碗を拾うためにかがんだ。

 「おみち……」

 頭上から降ってきた言葉に、頭を上げると、そこには忠恒の無表情な顔。片手には刀。





 「もう」





 ゆっくりと、鞘から抜かれる刀身。





 「笑えぬ」





 おみちはこの瞬間、悟った。

 もういまの忠恒は、自分が知っている忠恒ではない。目の前で自分を見下ろすこの人物は…………鬼だ。

 その日。

 一つの命が、消えた。





 伊集院忠棟は島津家の筆頭家老。しかもかつて豊臣家にいち早く降伏したことから、主家の島津家に匹敵する権限と石高を持っていた。彼の力が強くなることで、伊集院家は繁栄した。だが逆に、豊臣家に優遇される彼は、島津家の一族や他の家臣達から恨みを買った。それは太閤検地、朝鮮出兵などの無理を押し付けた豊臣家に対する憎しみも含まれていた。しかも彼は、豊臣家の重臣・石田三成と仲が良い。

 その三成は前田利家と共に、徳川家康と敵対している。もし三成と家康が本格的に争えば、忠棟が三成に味方する可能性がある。つまりそれは、島津家が徳川家の敵になることにも繋がる。

 (そのような縁は、断ち切らねばならない)

 だから忠恒は決意した。忠棟を含めた伊集院一族を抹殺し、島津家の権限を回復させることを。





 忠恒から書状を貰った忠棟は、内心喜んでいた。

 (ふふ、若殿もやっと私のような老臣を近づけるようになったか。いつまでも女ばかり集めてきて、心配していたのだが)

 彼はわずかな従者を連れて、伏見の屋敷に向かった。





 屋敷の門前に立つと、忠恒自ら出てきた。

 「忠棟、よく来てくれた。嬉しいぞ」

 「はっはっはっ、いや私も嬉しいですぞ。若殿から直々に書状を貰うなど」

 「この俺も、今年で23歳だ。家臣ともっと語らえと、父上辺りがうるさくてな」

 「はっはっはっはっ!その相手がこの忠棟とは、光栄ですな」





 上機嫌で茶室に案内される忠棟は、目の前を歩く女に眼を留めた。

 (ほう、なかなかの女だな。どうやら若殿の女性の好みは良さそうだ)

 「こちらです」

 茶室に入り、腰の刀を脇に置く。従者達は別の部屋に案内されていった。このことから忠棟は

 (ふむ、こんな密閉された部屋でただ茶を飲むはずがない。きっと若殿は重大な話があるのだろう)

 と予想した。





 「どうぞ」

 茶室に入ってきた忠恒の侍女が茶を出す。何でわざわざ茶を持ってきたのか疑問だったが、さして気にせず、忠棟はそれを飲んだ。

 「いかがですか?」

 「うむ、美味い」

 それから数分後、忠棟は胸に違和感を覚えた。

 (何だ?体が熱い……いや、痺れる?)

 疑問は焦りに、焦りは恐怖に変わる。忠棟はとっさに脇の刀に手を伸ばしたが、それよりも早く、刀は側で見ていた女に取られた。

 「お、お前……」

 刀を取った女…………霧子は、恐ろしい笑みを浮かべながら忠棟を見つめる。忠棟は戦慄した。

 (謀(はか)られた!)

 彼の予想は皮肉なほど、当ってしまった。





 逃げようと思った。だが体が動かない。下も回らない。喉から出てくるのはうめき声だけ。

 その時、茶室に忠恒が入ってきた。背後には美影とおげん。

 「忠棟、気分はどうだ?」

 「うぅ……」

 「安心しろ。お前の従者も、家族も、皆揃ってあの世に送ってやる」

 霧子が忠棟から奪った刀を差し出すと、ぞっとするような冷たい顔で鞘から刀身を抜いた。

 「お……あ……」

 「伊集院忠棟…………今までご苦労」

 振り上げられた刀は忠棟の頭を切り裂き、おびただしい血が周囲に飛んだ。それでも、忠恒は何度も彼を斬った。何度も、何度も。

 顔や服が血で汚れ、遂に霧子が笑い出す。つられて美影も、おげんも、口許に笑みを浮かべた。その様子はまさに、血を求めて狂気する鬼そのもの。





 しばらくの間、屋敷の茶室では肉を斬る音と、女の笑い声が響いた。





 後日。

 忠恒に呼び出されたおたかは、おみちが行方不明になったことを問いただした。

 忠恒は平然とこう言った。

 「おみちはずっとこの屋敷にいる。我々を見守っている」

 おたかはその言葉の意味がわからず、屋敷のどこにいるのか聞いた。すると、忠恒は外を指差して。





 「あの庭の中に、眠っているよ」





 おたかは顔から血の気が引き、忠恒を見た。忠恒は何かに憑かれたように、不気味な笑みを浮かべているだけだった。





 その日、忠恒の屋敷から…………おたかの姿は消えた。



 第八十二章 完


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