戦国島津伝


[人物辞典と年表]
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島津家 肝付家 伊東家 大友家 龍造寺家 九州の群雄 渋谷一族と国人

島津家

島津忠良(しまづ ただよし) 1492〜1568
薩摩の大名。
島津四兄弟の祖父。
『いろは歌』を作り、将兵の教育に尽力した名君。
後に出家して『日新斎』。


島津貴久(しまづ たかひさ) 1514〜1571
薩摩の大名。
島津四兄弟の父親。
島津忠良と共に『中興の祖』と称えられた。
後に出家して『伯囿』。


島津義久(しまづ よしひさ) 1533〜1611
薩摩の大名。
島津貴久の嫡男。
祖父の島津忠良から「三州の総大将たるの材徳自ら備わる」と評された。
後に出家して『龍伯』。


島津義弘(しまづ よしひろ) 1535〜1619
島津貴久の次男。
祖父の島津忠良から「雄武英略を以て他に傑出する」と評された。
後に出家して『惟新』。


島津歳久(しまづ としひさ) 1537〜1592
島津貴久の三男。
祖父の島津忠良から「始終の利害を察するの智計並びなし」と評された。
『梅北一揆』の煽りを受けて自害する。


島津家久(しまづ いえひさ) 1547〜1587
島津貴久の四男。
祖父の島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評された。
龍造寺隆信や十河存保を討ち取る。


島津義虎(しまづ よしとら) 1536〜1585
薩州家(島津の分家)の六代目当主。
島津義久の娘を娶り、一門衆の筆頭格となる。
1581年・相良義陽を降伏させた。


島津忠親(しまづ ただちか) 1504〜1571
豊州家(島津の分家)の五代目当主。
1568年・伊東家に飫肥城を奪われ、庄内(都城)へ敗走した。


島津忠長(しまづ ただたけ) 1551〜1610
島津四兄弟の従兄弟。
1586年・岩屋城攻略戦の総大将となる。
関ヶ原の合戦後は徳川家との和睦交渉に尽力した。


島津久保(しまづ ひさやす) 1573〜1593
島津義弘の次男。
将来を期待されていたが、朝鮮出兵中に没する。


島津忠恒(しまづ ただつね) 1576〜1638
島津義弘の三男。
薩摩藩初代藩主。
娘達を家臣に嫁がせて権力を掌握した。


島津忠隣(しまづ ただちか) 1569〜1587
島津歳久の養子。
実父は薩州家の島津義虎。
『根白坂の合戦』で豊臣軍に突撃した。


島津豊久(しまづ とよひさ) 1570〜1600
島津家久の息子。
日向佐土原城主。
伯父の島津義弘と関ヶ原合戦に参加した。


新納忠元(にいろ ただもと) 1526〜1610
島津四名臣の一人。
文武両道に秀でた重鎮。
『鬼武蔵』の異名で恐れられる。


鎌田政年(かまた まさとし) 1514〜1583
島津四名臣の一人。
歴戦の猛将として活躍。
1567年・菱刈軍が守備する馬越城を即日陥落させた。


川上久朗(かわかみ ひさあき) 1536〜1568
島津四名臣の一人。
若くして守護代に任命された逸材。
島津義弘の身代わりになって戦死した。


肝付兼盛(きもつき かねもり) 1533〜1578
島津四名臣の一人。
大隈加治木城主。
蒲生範清や伊東家との戦いで活躍した。


川上忠克(かわかみ ただかつ) 生没年不詳
島津家家臣。
川上久朗の父親。
元々は薩州家に仕えていた家老。


猿渡信光(さるわたり のぶみつ) 1534〜1587
島津家家臣。
肥後方面で活躍した勇将。
『根白坂の合戦』で戦死する。


伊集院忠朗(いじゅういん ただあき) 生没年不詳
島津家家臣。
1554年・岩剣城攻略戦で鉄砲を実戦投入した。


伊集院忠倉(いじゅういん ただあお) 生没年不詳
島津家家臣。
伊集院忠朗の息子。
1558年・筆頭家老を務めた。


伊集院忠棟(いじゅういん ただむね) ?〜1599
島津家家臣。
伊集院忠倉の息子。
親豊臣派として権勢を誇り、島津忠恒に殺害された。


伊集院忠真(いじゅういん ただざね) 1576〜1602
島津家家臣。
伊集院忠棟の息子。
1599年から翌年まで『庄内の乱』を起こす。
最期は島津忠恒に暗殺された。


伊集院久治(いじゅういん ひさはる) 1534〜1607
島津家家臣。
小姓から老中にまで出世した。


上井覚兼(うわい かくけん) 1545〜1589
島津家家臣。
『上井覚兼日記』や『伊勢守心得書』などの書物を残した。


樺山久高(かばやま ひさたか) 1558〜1634
島津家家臣。
島津忠恒に家老として重用された。
朝鮮出兵や琉球征服で功名を立てる。


長寿院盛淳(ちょうじゅいん もりあつ) ?〜1600
島津家家臣。
別名『阿多盛淳』。
島津義弘と関ヶ原合戦に参加した。


東郷重位(とうごう しげかた) 1561〜1643
島津家家臣。
示現流創始者。
薩摩藩の剣術指南役となる。


平田光宗(ひらた みつむね) ?〜1605
島津家家臣。
小姓から老中にまで出世した。


北郷時久(ほんごう ときひさ) 1530〜1596
島津氏一族である北郷氏の十代目当主。
島津忠親の息子。
後に出家して『一雲』。


山田有信(やまだ ありのぶ) 1544〜1609
島津家家臣。
籠城戦を得意とした智将。
日向高城で大友軍や豊臣軍を最後まで苦しめた。


種子島久時(たねがしま ひさとき) 1568〜1611
種子島領主。
種子島時堯の次男。
島津家に従って各地を転戦した。


梅北国兼(うめきた くにかね) ?〜1592
島津家家臣。
実直な水軍司令官。
肥後佐敷城を襲って『梅北一揆』を起こす。


中馬重方(ちゅうまん しげかた) 1563〜1635
島津家家臣。
島津義弘お気に入りの猛者。
数多くの合戦で活躍した。


木脇祐秀(きのわき すけひで) 1577〜1619
島津家家臣。
長刀を振るって『今弁慶』と呼ばれる。
島津義弘に殉死。


川田義朗(かわだ よしあき) ?〜1595
島津家家臣。
合戦の吉兆などを占った軍師的存在。
生涯妻を持たなかった。


花舜夫人(かしゅんふじん) ?〜1559
島津義久の正室。
島津忠良(日新斎)の四女。
於平の母親。
戒名は『花舜妙香』。


妙蓮夫人(みょうれんふじん) ?〜1572
島津義久の後室。
種子島時堯の娘で義久の従兄弟にあたる。
お玉と亀寿の母親。
戒名は『円信院殿妙連大姉』。


実窓夫人(じっそうふじん) ?〜1607
島津義弘の正室。
通称『宰相殿』。
多くの手紙を義弘から受け取った。


於平(おひら) 1551〜1603
島津義久の長女。
島津義虎に嫁ぎ、五男を儲ける。


お玉(おたま) 1563〜1641
島津義久の次女。
一族の島津彰久に嫁ぐ。


亀寿(かめじゅ) 1571〜1630
島津義久の三女。
島津久保に嫁ぎ、彼の死後は島津忠恒と再婚。
『持明夫人』と呼ばれた。


御下(おした) 1584〜1649
島津義弘の次女。
幼名『千鶴』。
伊集院忠真の正室となる。



肝付家

肝付兼続(きもつき かねつぐ) 1511〜1566
大隈の大名。
1561年・『竹原山の合戦』で島津忠将を討ち取った。


肝付良兼(きもつき よしかね) 1535〜1571
大隈の大名。
肝付兼続の嫡男。
伊地知重興や禰寝氏と共に島津家と戦った。


肝付兼亮(きもつき かねあき) 1558〜1634
大隈の大名。
肝付兼続の次男。
1574年・島津家に降伏。
義母や家臣達によって日向へ追放された。


肝付兼護(きもつき かねもり) 1561〜1600
大隈の大名。
肝付兼続の三男。
1574年・当主として擁立される。


安楽兼寛(あんらく かねひろ) 生没年不詳
肝付家家臣。
入船(牛根)城主。
島津軍の攻撃に耐え続けたが、1574年に降伏。


伊地知重興(いぢち しげおき) 1528〜1580
大隈の国人。
肝付家最大の同盟者。
1574年・島津家に降伏。



伊東家

伊東義祐(いとう よしすけ) 1512〜1585
日向の大名。
1577年・島津軍に侵略され、豊後の大友宗麟を頼る。
耳川の合戦後は四国に渡り、堺付近で死去。


伊東祐安(いとう すけやす) 1523〜1572
伊東家家臣。
『木崎原の合戦』で総大将を務めたが、島津義弘に敗れ戦死。


伊東祐兵(いとう すけたか) 1559〜1600
伊東義祐の三男。
飫肥藩初代藩主。
1587年・豊臣秀吉の九州征伐で道案内を務めた。



大友家

大友宗麟(おおとも そうりん) 1530〜1587
豊後の大名。
九州六ヶ国を支配して全盛期を築く。
1578年・『耳川の合戦』で島津軍に大敗。
上洛して豊臣秀吉に救援を頼んだ。


大友義統(おおとも よしむね) 1558〜1610
豊後の大名。
大友宗麟の息子。
1593年・朝鮮出兵中に失態を犯し、改易された。


蒲池鑑盛(かまち あきもり) 1520〜1578
大友家家臣。
筑後十五城(筑後の国人衆)の筆頭。
1545年・肥前を追放された龍造寺隆信を手厚く保護した。
耳川合戦で戦死。


立花道雪(たちばな どうせつ) 1513〜1585
大友家家臣。
若い頃に落雷を受けて半身不随となる。
『鬼道雪』や『雷神』と呼ばれ、諸国に勇名を轟かせた。
大友家の領土奪還中に病死。


立花宗茂(たちばな むねしげ) 1567〜1643
大友家家臣。
立花道雪の養子。
豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価された名将。
1586年・立花山城で島津軍を撃退する。
関ヶ原合戦では西軍に属した。


高橋紹運(たかはし しょううん) 1548〜1586
大友家家臣。
立花宗茂の実父。
岩屋城で島津軍と戦い、壮絶な最期を遂げた。


田原親賢(たわら ちかかた) 1537〜1600
大友家家臣。
耳川合戦の大友軍総大将を務めた。
後に出家して『紹忍』。


田北鎮周(たきた しげかね) 1543〜1578
大友家家臣。
武勇に優れた猛将。
耳川合戦で島津軍に突撃した。


角隈石宗(つのくま せきそう) 1519〜1578
大友家家臣。
高名な軍師として知られる。
耳川合戦で戦死した。


佐田鎮綱(さだ しげつな) 生没年不詳
大友家家臣。
耳川合戦以降、衰退する主家を支え続けた。


佐伯惟教(さえき これのり) 1524〜1578
大友家家臣。
耳川合戦で戦死した。


佐伯惟定(さえき これさだ) 1569〜1618
大友家家臣。
佐伯惟教の孫。
1586年・栂牟礼城で島津家久の軍隊を撃退した。
主家改易後、藤堂高虎に仕官する。


志賀親守(しが ちかもり) 生没年不詳
大友家家臣。
耳川合戦で別働隊を率いた。
1586年・大友宗麟と丹生島城(臼杵城)に籠城し、島津軍を撃退する。


志賀親次(しが ちかつぐ) 1566〜?
大友家家臣。
志賀親守の孫。
1586年・岡城で島津義弘の軍隊を撃退した。
朝鮮出兵で大友義統に敵前逃亡を進言してしまう。


ァ千代(ぎんちよ) 1569〜1602
立花道雪の娘。
立花山城の正式な城主。
1586年・夫の立花宗茂と共に島津軍を撃退した。



龍造寺家

龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ) 1529〜1584
肥前の大名。
短期間で九州北西に勢力を広げる。
『五州ニ島の太守』と称し、『肥前の熊』と恐れられた。
『沖田畷の合戦』で島津家久に敗れ戦死。


龍造寺政家(りゅうぞうじ まさいえ) 1566〜1607
肥前の大名。
龍造寺隆信の息子。
豊臣秀吉の九州征伐では先鋒を務め、鍋島直茂に国政を預けた。


龍造寺家就(りゅうぞうじ いえなり) 生没年不詳
龍造寺家家臣。
北上する島津軍と戦った。


鍋島直茂(なべしま なおしげ) 1538〜1618
龍造寺家家臣。
智勇兼備の名将。
1570年・『今山の合戦』で大友軍を撃退した。
主家の実権を掌握し、佐賀藩(鍋島藩)の藩祖となる。


百武賢兼(ひゃくたけ ともかね) 1538〜1584
龍造寺四天王の一人。
『沖田畷の合戦』で戦死。


江里口信常(えりぐち のぶつね) ?〜1584
龍造寺四天王の一人。
『沖田畷の合戦』で単身敵本陣に乗り込み殺された。


円城寺信胤(えんじょうじ のぶたね) ?〜1584
龍造寺四天王の一人(資料により木下昌直と入れ替わる)。
『沖田畷の合戦』で戦死。


成松信勝(なりまつ のぶかつ) ?〜1584
龍造寺四天王の一人。
『沖田畷の合戦』で戦死。


木下昌直(きのした まさなお) ?〜1584
龍造寺四天王の一人(資料により円城寺信胤と入れ替わる)。
『沖田畷の合戦』で殿軍を務めて戦死した。



九州の群雄

有馬晴信(ありま はるのぶ) 1567〜1612
島原半島の大名。
龍造寺家に従属していたが、島津家と内通して挙兵する。
1584年・島津家に救援を要請して龍造寺軍を撃退した(沖田畷の合戦)。


秋月種実(あきづき たねざね) 1548〜1596
筑前の国人(戦国大名)。
大友家に従属していたが、島津家に呼応して独立する。
1587年・豊臣秀吉の九州征伐軍に敗れ降伏。


阿蘇惟将(あそ これまさ) 1520〜1583
北肥後の大名。
甲斐宗運と共に阿蘇家を守り続けた。


阿蘇惟種(あそ これたね) 1540〜1584
北肥後の大名。
阿蘇惟将の弟。
1583年・兄の跡を継いで当主となる。


阿蘇惟光(あそ これみつ) 1582〜1593
北肥後の大名。
阿蘇惟種の息子。
伯父と父親の急死で当主となった。
1585年・島津家に降伏。


甲斐宗運(かい そううん) 1515〜1585
阿蘇家家臣。
百戦錬磨の軍師として活躍。
1581年・『響ヶ原の合戦』で相良義陽を討ち取った。


相良義陽(さがら よしひ) 1544〜1581
南肥後の大名。
二度の内乱を鎮圧した。
1581年・島津家に降伏。


犬童頼安(いんどう よりやす) 1521〜1606
相良家家臣。
水俣城の守将。
1579年・新納忠元と連歌を応酬した。


岡本頼氏(おかもと よりうじ) 1537〜1606
相良家家臣。
槍の達人として名を馳せる。
1568年・島津家の川上久朗を討ち取った。


深水長智(ふかみ ながとも) 1532〜1590
相良家家臣。
外交官として主家を支えた。


佐牟田長堅(さむた ながかた) 1546〜1578
相良家家臣。
勇猛な武将だったが、島津義久に暗殺される。


赤星総家(あかほし むねいえ) 1530〜1619
肥後の国人。
隈府城主。
龍造寺家から離反し、島津家と手を結ぶ。
1584年・『沖田畷の合戦』で龍造寺軍を撃退した。


筑紫広門(つくし ひろかど) 1556〜1623
筑後の国人。
大友家に敵対していたが、高橋紹運の働きで傘下に入る。
関ヶ原合戦では西軍に属して改易された。



渋谷一族と国人

東郷氏(とうごうし)
鎌倉時代からの名門『渋谷一族』。
北薩摩を中心に勢力を誇った。
1570年・島津家に降伏。


祁答院氏(けどういんし)
鎌倉時代からの名門『渋谷一族』。
北薩摩を中心に勢力を誇った。
1566年・当主の祁答院良重が妻に殺害されて没落。


入来院氏(いりきいんし)
鎌倉時代からの名門『渋谷一族』。
北薩摩を中心に勢力を誇った。
1570年・島津家に降伏。


蒲生範清(かもう のりきよ) 生没年不詳
西大隈の国人。
渋谷一族と結んで島津家と争った。
1557年・島津家に降伏。


菱刈隆秋(ひしかり たかあき) 生没年不詳
北薩摩の国人。
渋谷一族と結んで島津家と争った。
1569年・大口城陥落後、相良家の人吉城へ去る。





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[年表]

1533年・義久誕生
1535年・義弘誕生
1537年・歳久誕生
1547年・家久誕生
1554年・岩剣城攻略戦 島津軍が国人連合軍に勝利 義久兄弟の初陣
1557年・西大隈の蒲生範清が降伏
1560年・桶狭間の合戦
1561年・竹原山の合戦 島津軍が肝付軍に敗北 家久の初陣
1564年・義久が家督を継ぐ
1566年・渋谷一族の祁答院氏が没落
  ・貴久隠居
1567年・馬越城攻略戦 島津軍が菱刈軍に勝利 即日陥落
1568年・忠良(日新斎)死去
     ・飫肥城陥落
1569年・大口城攻略戦 島津軍が相良軍に勝利 菱刈氏の没落
1570年・渋谷一族の東郷重尚(東郷氏)と入来院重嗣(入来院氏)が降伏
1571年・貴久死去
1572年・木崎原の合戦 義弘が伊東軍に勝利
1573年・足利義昭追放 事実上の幕府滅亡
1574年・大隈の肝付氏が降伏
1575年・家久上京
1577年・日向の伊東氏が豊後へ逃亡
1578年・耳川の合戦 島津軍が大友軍に勝利
1579年・第一次水俣城攻略戦 島津軍が相良軍に敗北
1581年・第二次水俣城攻略戦
     ・南肥後の相良氏が降伏
1582年・本能寺の変
1584年・沖田畷の合戦 島津有馬連合軍が龍造寺軍に勝利
1585年・北肥後の阿蘇氏が降伏
1586年・岩屋城攻略戦 島津軍が高橋軍に勝利 城主の高橋紹運が玉砕戦死
     ・戸次川の合戦 家久が豊臣軍(四国勢)に勝利 大友義統が豊前へ退去
1587年・根白坂の合戦 島津軍が豊臣軍に大敗
     ・家久降伏
     ・義久降伏(場所は泰平寺) 5月8日
     ・義弘降伏 5月19日
     ・家久急死 6月5日
1592年・梅北一揆 勃発 梅北国兼が佐敷城を占拠
     ・梅北一揆 鎮圧 梅北国兼が戦死
     ・歳久自害 7月18日
1595年・義久が富隈城 義弘が帖佐城 忠恒が内城に移る
1598年・豊臣秀吉死去
     ・泗川の合戦 義弘が明軍に勝利
     ・露梁海戦 朝鮮水軍の李舜臣が戦死
1599年・伊集院忠棟が島津忠恒に殺害される
     ・庄内の乱 勃発 伊集院忠真が島津家に敵対
1600年・庄内の乱 収束 伊集院忠真が島津家と和睦
     ・関ヶ原の合戦
     ・九州連合軍が薩摩国境に迫る 徳川家康の命令で撤退
1602年・忠恒が上洛して謝罪 本領安堵を得る

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